2013年12月8日日曜日

リハビリ・ハイ


前回の記事から遠くなりすぎたので頭から話しますね。

「この病気の救いは、いつか治る」ということです、という妙な病気で入院したのは今年の8月11日のことです。「ギランバレー症候群」。症状の出方がそれぞれ違うのでまだ対処法もなく、患者は10万人に1人、珍しい症状なので「難病」指定を受けています。

「いつか治る」というこの症状の特徴は「末梢神経が直撃されてしまう」というもので、なるほど早い人は3ヶ月で完治したと言うし、「私の担当した方は3年半かかりました。80%の方が歩けるようになり、60%の方は駆けることができるまでに回復するそうです。ただ、治らないうちに寿命の尽きてしまう方も…」だそうなのでそんなに楽観的になってイイ病気でもないらしい。ま、病気を楽観視する人はいないと思うけど、他人の病気なんてそれこそ「他人事(ひとごと)」だしねぇ

9月18日。現在のリハビリ病院に転院しました。

ただ、このリハビリ病院は患者を3ヶ月しか置かないことを規則としています。
マ、多くの病院がそうだ(最大でも5ヶ月までとか)と聞いてはいましたので、患者も療法士も3ヶ月を目処にリハビリを始めます。
「入院は6ヶ月を覚悟していて下さいね」と言っていた病院の紹介でここに来たのだから、あの主治医は大袈裟なのさ。頑張れば3ヶ月で治るんだよ、きっと。
などと不安を無理矢理振り払い、当然、僕も3ヶ月で家に歩いて帰る、を目標にしてリハビリ生活に入ったのです。
しかし、退院があと半月と差し迫った今、僕がしていることと言ったら、病院内での日常生活は歩行器使用、リハビリ自体は杖、あるいは杖ナシ歩行の訓練といった段階。しかし、療法士の見守りなしに1人で歩くことなど全く困難なのだから、僕の退院予想図には大幅な狂いが生じていたのです。

ところが普通の身体の人ならここまでやれれば「祝・退院」という話も出るんでしょうが、僕の場合は「歩く」と言うにはほど遠く、まだ「動く」ロボットと変わらないんですね。突然誰かに目の前を通られると倒れます。とっさに転倒を防ぐ反射神経が元に戻っていないからです。
末梢神経という末梢神経をほとんどやられているらしく、かかとはやっと地面を感じているのですが、爪先は何も感じてくれません。
当然のように手の指先も感覚は鈍い。指の腹で触っただけでは1円玉と100円玉の区別が出来ません。大きさ、重さ、デザインの凹凸。情報を駆使すればすぐ判るはずですが、指はこわばり、肌触りの良くない手袋をしている感じ。つまり足も手も訓練しないことにはなんの使い物にもなりません。
タオルの上でコインを拾い、それを貯金箱に入れる、という一連の行動が出来るようになったのはわずか3週間前です。今では机の上のコインを拾うことも出来るので、ま、訓練の成果はそれなりに得てはいるのですが…。

口の左から息が漏れて、頬を膨らませることが出来ないのは多分、顔の筋肉を鍛えれば良い。
でも、手足の痺れは…? 多分自然治癒を待つことか、ある日突然訪れる「ハイジの大親友」の奇蹟を待つくらいしか方法はない。
ただ、自然治癒を待っていても「いつか治る」の「いつか」が判らない限り、ノンビリ待ってもいられないのですから、人間のするすべての作業を身体に強制的に覚え込ませてしまうわけです。
「歩く、ってのはこういうことだァ」「ネジを捲くってのはこういうことだァ」「メシはこんな風に喰うんだァ」
と無理矢理身体に覚え込ませるわけですね。

人間の一生を0歳からやり直してる気分になりました。
だって、這い這いの練習だってやるんですから。

知能的には何が失われ、何が残っているのかを調べるために一ヶ月くらい掛けてIQテストもしました。
だけど、「出来る問題」については屈辱を感じ、「出来ない問題」については「こんな問題が出来なくなっちゃったのかぁ」と喪失感と敗北感にとらわれます。一挙に鬱状態に向かい始めたのはこのころです。9月下旬から10月半ば頃までですかねぇ。
色んなことに腹が立ち、他人の言動のアラに気づいてしまいます。見つけてしまうのでなく、とても些末なことにまで神経が働くようになってしまったのです。厄介なこった。

例文「今日はクリスマスなのでケーキを買って夜、家族みんなで食べます」
問①「何故ケーキを買ったんでしょう?」
問② 「ケーキは誰が食べましたか?」
問③「ケーキはいつ食べましたか?」
問④「今日は何でしたか?」
てな問題に真面目に答えないといけないわけです。

逆に数字が4桁になるともう全然頭に入ってこず、ほぼ全滅になります。
「4279、コレを数字の若い順に並べ直して下さい」
「5た9し3か、ひらがなだけをアに近い順に並べて下さい」

ジグソーも時間切れすることが時々ありました。

このリハビリは「スピーチ・セラピー(ST)」の中で行われ、他に「オキュペーショナル・セラピー(OT)」「フィジカル・セラピー(PT)」と1日3つのリハビリをこなします。
1つ1時間で土日も休みはありません。ちなみに年末年始も休みはありません。

この病院に来た当初は車椅子からベッドに移るのがやっとの体力。誰かに支えていて貰わない限り、立っていることもままなりませんでした。
車椅子に座っている体力もなく、15分でクタクタ。トローンと眠気が襲ってきて、血圧を測ると決まって100を下回る数字。
リハビリも1時間こなす体力はまるでなく、毎回40分位で切り上げて貰う始末。
「かぜ耕士としての復帰はもうナイだろうが、山田功という人生に復帰することは出来るんだろうか?」
絶望感ばかりが襲ってくる日々でした。

主治医に「向精神薬を下さい」とお願いしたのも思えばその頃でした。
いつから飲み始めたのかはメモしていませんでしたが、ある日、朝食後の薬を飲み忘れたのです。
気づいたのは昼食のあとでした。
ま、飲まないよりは飲んだ方が良いだろうと急いで飲んで、午後のリハビリに備えました。
夜の薬との兼ね合いがふと心配になりました。
朝夜2回の服薬なので夜に飲む薬の中に同じ薬がある。
時間が短すぎて効き目が強くなりすぎるって事はないのだろうか、と普段なら心配性が顔を出すところなのだが、この日は違った。
「そんなに心配なら吐き出せばイイじゃん」とやけにクールなのだ。
「もう胃の中で消化され始めてるんだから、今更悩んだって仕方ないじゃん」と楽観的でもある。
そのまま、リハビリに突入したのだが、どういうわけか妙にご機嫌。
リハビリの先生たちに軽口をたたいたり、動かぬ顔の筋肉を無理矢理動かしてでも笑ってたかったり、で1時間を楽しく乗り切ってしまった。
オレらしくない、妙にハイだ、と思ったのはそれから数日後で、向精神薬の効き目というのはこういうものなのだ、と理解した。
ともあれ、その後、他人の言動でひどく傷ついたりしたこともあったが、それでリハビリに支障が出るようなこともなく、「降圧剤」を服まなくなったら血圧も落ち着いた。

さて、すべてが楽しくなり始めた11月5日、「家屋調査」なるものが行われた。
OT、PTの先生と僕担当の介護福祉士、プラス僕と僕の家族1人が立ち会い、退院を視野に入れた改修工事の計画を練るためだ。
ただ、リハビリ病院に転院してひと月半。僕はやっと歩行器を操れるようになったばかりで退院後のイメージなどまるで浮かんでこない。
家の中を自由に歩き回れなければ「治った」とは言えないわけだが、自然治癒にしか委ねられない部位もある身体なので、「完治」での退院はない。
身体中の肉が落ち、筋力がほとんどない現在の状態から脱するのに2年近いジム通いが必要だともアドバイスされている。
退院までの猶予1ヶ月半。クララの奇跡が望めない今、家の中を歩行器で動く、というイメージの下で改修工事を考える以外手はなかった。

しかし、発症から3ヶ月。家はあの日のまま汚れ放題だし、おまけに発症の一日前に介護事務所のお世話でベッドを運び込む計画があったから、その場しのぎで家具が移動されていた。
家の中で空いている場所と言えば、僕の帰りをひたすら待つ愛犬Blakeの通り道くらいだった。
いやいや、コレでは退院しようにも帰る家がないも同然だ。
急いで大掃除して12 月半ばまでに必要な工事を済ませて貰わねば。

ところが不思議だねぇ、それほど焦った気分にはならないんだね。
多分、薬の効き目なんだろうけど、じゃ、あとひと月半で歩けるようになってやろうじゃないか。
僕はかつてないほど前向きな気分になって1課目1時間、1日3課目をこなすリハビリを全科目40分にして貰って1日4課目、歩くためのトレーニング主体のPTを1日2回やって貰えないだろうか、と提案してしまった。
時間を増やせば歩けるようになる、ってものでもないけれど、僕の声は思ったより人の耳に届くようになっていたらしく、言葉も明瞭になり、「ン、今なんて言ったの?」と訊き返されるようなことはなくなっていた。
つまり、僕の中で「リハビリ=努力は報われる」という公式がなりたち始めていたわけだ。
勿論、STの先生方はラジオパーソナリティだった僕が50音を正しく発音できるようになれば、自信の端っこくらいは掴まえるんじゃないか、という計画をキチンと立てていてくれたのだと思うのです。
発音が困難だった「ハ行」「バ行」「マ行」の単語を組み合わせた文章や音の組み合わせを集中的にトレーニングしてくれました。
結果、まず最初に言葉がリハビリ効果を顕しました。すンごく嬉しかったです。

そんな時期にWAHAHA本舗の社長兼演出家・喰始が見舞いに来てくれたものだから、リハビリ室には一瞬どよめきが起こる始末。なるほどイギリスの少年みたいな焦げ茶をベースにした半ズボンの彼は絵本の中の少年のように可愛いおしゃれな爺さんでした。
「お~い、久しぶり、かぜ耕士ィ~」
いつもの調子の喰ちゃんでしたが、実は受付で「かぜ耕士」の名前しか思い浮かばず、何人かの古い知り合いに僕の本名を知るために電話を掛けまくってくれたらしいのだが判らなかったため、1階にあったリハビリ室に入ってしまったところ、ちょうどリハビリを終えて病室に戻ろうとしていた車いすの僕と出会えたのだった。
本名なんか忘れてしまう長いつき合いです。喰ちゃん19、僕23歳が最初ですから46年。
僕を頻繁に見舞ってくれる友人には同様に古い友人が多く、23の時、フジテレビのADのバイトで知り合い、数年後、劇団四季の期待の若手になっていた藤田徳次(のち、胃潰瘍でリタイア、パソコンの学習ソフト会社社長として成功)、29歳で歌手デビューした時、シングル盤のジャケット写真を撮って貰ったのがつき合いの始まりとなった栗原潔現役カメラマン、TVの情報番組を書き始めた頃に組んで以来、27年の長いつきあいになった金田直人現役TVディレクター、同じく25年ものつきあいになった現役ディレクターの四倉光太郎君は彼がまだADだった頃から、違和感なく話をしていた聞き上手。僕が25歳で6畳1間1万円の粗末なアパートにいる頃、突然、弟子入り志願をしてきた18歳の若者尾関恩は今や小さいながらもTV制作会社の社長。喰、藤田に次ぐ44年にも及ぶ長いつきあいになっている。
そこに現役TVディレクターの大林彰君、ドキュメンタリー芸人コラアゲンはいごうまん君、『たむたむたいむ』のディレクターをしてくれていた藤井正博さんやスポニチ『キャンバスNOW』からの流れの現役ラジオ人黒瀬守泰君などが見舞いに来てくれたから、僕が一介のリハビリ老人でいられなくなったのは当然だ。
黒瀬君がどんなにお気に入りの赤のアロハを控えて大人しめの服装できてくれてもハワイアンにしか見えないし、喰ちゃんは元々地味な服なんか持ってないし、で僕の見舞客はみんな翌日のリハビリで先生とのイイ話のきっかけになるのだった。
でも、黒瀬君が赤主体でないアロハを着て来てくれた日はその気遣いに、涙が出そうになったよ。
どうやら僕だけが大雑把で僕の友達はみんな繊細な神経をしてる。

まあ、そうこうする内、とにかく我が家を掃除しなければならなくなった。
僕にはFaceBook上の友達として20代の若者が60人近くいる。
ひと声かけたら4~5人は手を挙げてくれるんじゃないかな?
安易な考えで(イヤ、実は考えに考え抜いたんだけど)FB上で「お願い」をしてみました。
手が上がらないだろう事は予測していました。
なぜなら彼らのほとんどは僕が「目下病気中」という記事に全く反応してくれてはおらず、もし、今度、なんの反応もないなら友達名簿から削除する良いチャンスだ、と思ったのですね。
無関心は何より寂しい。僕にはそういう友達関係を続けるほど長い人生が残っているわけじゃない。
僕の年齢から言ってももはや若い人たちと長いつきあいになる可能性はないけど、大事な友達になる可能性はある。
ま、そんな思いで書いた「投稿」に肝心の若者たちからは案の定、なんの反応もありませんでした。イヤ、「なんの」は失礼だな。かつての僕の生徒2人からは「今回は無理だが、次に招集がある時は行きます」と返事があった。
かぜ耕士の人生にもし、もう一度チャンスがあるなら、僕は君たち2人の役には立ちたいよ。

ま、結果は「予想通り」の一語に尽きるのだけど、応援を申し出てくれたのはいずれも5~60歳代の男女数人ずつ。正直、重いものが多い今回の大掃除では戦力としてちときつい。
そこに「1日ずれれば学生を何人か連れて行けますが…」との申し出。
ハックルベリーフィンのライブ出演者として存在はすでに知っていたバンドSSUのギタリスト菅谷さんでした。 イヤー、日にちをずらすのなんか簡単です。戦力が欲しいんですから。
戦力外ながら手を挙げてくれた人たちに1日ずれることを報告し、11月30日(土)を待ちました。

菅谷さんは大学教授で工学博士。大学院の学生君二人を連れてきてくれました。僕の住む「嵐山町菅谷」という地名にも興味を持ってくれ、早朝の嵐山渓谷を始め、この町のあちこちをカメラに収め、FB上にアップしてくれています。
学生君二人に菅谷先生と四倉君が大活躍してくれて、腕を骨折したばかりの金田君は陣頭指揮をとってくれ、「こう見えて案外力持ちです」と豪語した尾関君はやっぱり戦力外で小物の片付けに回ってくれました。
たった1人、参加してくれた女性津布久静緒さんは『たむたむたいむ』のほぼ最初からのリスナーで40年来の知り合い。勿論、顔を合わせたのは6年後くらいでしたが、ずっとイイ友達でいてくれます。
結局、僕は何をするでもなくBlakeと戯れていたのですが、彼は誰にでもすり寄って友愛の情を示し続けました。
彼にとってもみんなから「いいね!」をいっぱい貰って、ご機嫌な1日だったと思います。

大掃除と言っても1階のものを2階に移動しただけなのですが、手摺りの取り付けにはコレが欠かせない大仕事なんですね。
予定より1時間も早くカタがついて、尾関君、四倉君は帰路に。
残る6人で「うどん九兵衛屋」で「うどんしゃぶしゃぶ」の食べ放題メニューに挑戦することにしました。
学生君たちの豪快な食べっぷりが楽しくて、熟年たちもそれにつられてお代わりを繰り返し、なんだか「ハイ」な感じの夕食となりました。食事で「ハイ」になれるなんて、こんな幸せなことはないね。
常に穏やかな菅谷先生が剽軽な姿を写真に残しちゃったのが楽しい夕食の雰囲気をダイレクトに伝えてくれているかも知れません。

ちなみに菅谷先生はこの日の「投稿」で僕を「師匠」と呼び始めてしまい、「弟子2号」にして欲しいと言ってきました。
若い時から弟子をとらない主義なので世間的には「弟子1号」ということになっている尾関君も本当は「弟子」じゃないんですが、何かある際には「弟子」のように立ち回ってくれます。
で、それを見た菅谷博士は「弟子2号」の座が空いていることに気づき、弟子志願をして来ちゃったんだけど、尾関君も菅谷さんも「人の好さそうなルックスが特徴。僕はこういう人にすぐモノを頼んだりしちゃうので、きっと菅谷さんとはこれからもお付き合いが続くに違いありません。
なのでこれから菅谷さんが「師匠」と書いていたらそれを「かぜ耕士」と置き換えてみて下さい。
それにしても「社長」と「博士」が「弟子」って、なんの「師匠」?

ちなみに退院は来年2月と決まりました。
つまり、この病院にいられるギリギリの期間にまで延びてしまったわけです。
退院後は通院でのリハビリや訪問リハビリ、ジム通いなどで完治を目指します。
しっかし、↓の写真の僕、ガリッガリだね。残念ながらまだ笑顔が作れません。
表情筋、鍛えなくっちゃね。




2013年9月25日水曜日

ギランバレー症候群

皆さん、ご無沙汰しております。
報告が遅れました。

8月11日、突然、顔が変形する自覚があり救急車を要請しました。ご飯が口からこぼれ、パ、ハ、マ行が言えなくなっていました。
埼玉医科大学国際医療センターという救急救命施設に運ばれました
こういうこともありそうな気がしてここ数日の異変を書き留めておいたmemoも示しましたら「何となく予想される病気があります。入院して検査しましょう」

8月に、入ってすぐ足が動きにくくなりました。
8月5~8日まで「整形外科」を求めてさすらい歩き、やっと埼玉医科大学毛呂山病院にたどり着きいくつかの検査を依頼。
8/9 居間で突然腰砕け。救急車要請したものの、前記病院では「あなたのような入院希望患者は何10人といる」と聴診器も当ててもらえず追い返された。
8/10 妹のバースデイを祝い、彼女の実家に泊まったのが幸いしたか。
翌日発症。
8/11 家族全員知る状態で入院した。

病名は「ギランバレー症候群」。
必ずや快方に向かう病気らしいのだが症例少なく扱いは「難病」なんだそうだ。
また「快方」も人それぞれらしく3ヶ月の人もいれば3年5ヶ月の人もいるという話。「あなたの場合は最短で6か月を、覚悟してください」

8/11以降は
免疫グロブリン投与。
よく解らないのだけど僕の不良血漿を良性のものにおきかえていくらしい。1本1時間の点滴を1日5本。5日連続で投与するとそれから2週間の間に効果のほどは現れてくるのだという。
ところが僕の身体では期待したほどの結果が得られなかったらしく、入院4週目にまた5日間の投与。

法令線が消え、白髪が消え、歪んでいた顔も歪みが目立たなくなり…と目立った改善点もあったけど、瞼が降りない、口に含むという動作やブクブクをするといった用事が出来ない。ご飯は噛めない、お粥やペースト状にしてすべて呑み込むことしか出来ない。そして発音は不明瞭。手足の痺れは残り、結局、リハビリでこれらを一つずつ解決して行くしか無いらしい。

そんなわけで僕のリハビリ生活が始まったんだけど、いついつまでにどこがどう良くなる、という目安がないので期限なしのハードな闘いをしている感じ。
辛いです。
でも弱音を吐いて誰が喜ぶわけでもないので、とにかく家の中を普通に歩き回れる生活を目指して頑張ってみます。

皆さん、改めてご心配かけました。
お便りも何通か戴いていますがお返事できず申し訳ありません。
これからもお返事書けませんがお許し下さい。

間遠な投稿になりますが、これからもどうぞよろしくお願いいたします。

2013年7月27日土曜日

雷雨です


我が家地帯はただいま雷雨。

そうなるとカミナリが嫌いで嫌いでしょーがないBlakeはガタガタ震えながらこんなとこにいます。

わずか8㎏足らずでもずーっと腹の上に居られると相当重いです。



7月22日 夏休みが欲しくて


夏休みを取りたくて今日は3本録音させてもらった。
Kuro-sanと「動物園」、藤島新さんと「101シンガーズ」「映画音楽」の計3本。
動物園は1時間持たせられるかなあ、と少し不安もあったんだけど、Kuro-sanが根っからの動物園好きなのでアッと言う間に録り終えてしまった。
Kuro-sanの選曲がこれまたイイので是非聞いて下さい。

「101シンガーズ」と言うのは、2003年の『ステージ101復活コンサート』のあと、黒沢裕一さん、牧ミユキさん、石岡ひろしさん、小原初美さん、の4人によって結成されごく短期間活動しました。
今回は4人の古い歌とごく最近出されたCDを紹介しています。
楽しんでいただけると幸いです。放送は今日Pm:11-12:00です。

「映画音楽」は新さんのバースデイコンサートのテーマでもありました。
「映画」の四方山話をしながら僕の想い出の1曲と新さん選曲の4曲をかけました。
なんか楽しかったので近々、またやりたいと思ってます。

録音のあと、新さんの誕生日祝いとして飯を喰いました。
僕は基本、一人飯で会話のない寂しい生活を送ってるので、とても楽しく食べました。
ああ、酒が飲めた頃は、ご飯だけで済むことなんて無かったのになあ、などと楽しくハードな1日を振り返りつつ、まもなく我が家駅です。

Kuro-san、新さん、訳詞してくれた赤穂君、ありがとうございました。
写真はKuro-san、新さんと。


7月17日 下高井戸シネマ


この映画館には1996年ぶり位かもしれない。
アメリカのエロ雑誌『ペントハウス』の創刊者とアメリカ市民の表現の自由を巡っての闘いを描いた『ラリー・フリント』を見るためだったが、わざわざ出向いた甲斐のある一編だった。
こんな下劣な雑誌にも「表現の自由」を認めなければならないのか、と言う市民の苛立ちはついにラリー銃撃に発展し、男たちのソコを勃たせるたるためだけに作っていたような雑誌の編集長は下半身不随になってしまうのだった…。
日本でも漫画の世界でこうした攻防があったけど、この傑作が例に引かれることはなかった。
『ラリー・フリント』はミロシュ・フォアマン監督、ウディ・ハレルソン、コートニー・ラブ主演。是非一度ご覧ください。
映画各賞で作品賞、監督賞、主演、助演賞の候補になりながら、ほとんど取り零してしまった、僕的傑作です。

下高井戸シネマって多分、そういう作品が好きなんだと思う。

本日の上映作は『ザ・マスター』。
今年度のアカデミー賞で主演、男女の助演賞、脚本賞の4部門にノミネートされて、全部獲り損ねた。
監督はポール・トーマス・アンダーソン。
家族愛に恵まれない巨根少年がポルノ俳優となりそこで初めて安らぎと愛を知るという哀しい青春映画『ブギー・ナイツ』を作って評判になった。
「ポルノ映画」が「ポルノビデオ」に駆逐され始めた時代の描き方が秀逸。
「映画館」から「個室」「寝室」へ。その過程で失われたもの、生まれたものにまで思いを馳せてしまう、後を引く一本だった。
肉体派バート・レイノルズが再評価され、ジュリアン・ムーアの演技派ぶりと美貌が注目され、主演したマーク・ウォルバーグは一躍スターになった。これも僕的には傑作の一本。

今日の『ザ・マスター』はカルト宗教の教祖と第二次大戦のトラウマを抱えたアル中兵士の出会いと別れを描いたもので、これも哀切溢れる見事な仕上がり。
救いたいが救えない、信じたいが信じきれない男と男の哀しい巡り会い。
教祖は必死で自分を信じようとする男に『中国行きのスロウボートで』で行こうよ、と歌いかける。
当時、フレッド・アステアの映画で歌われ、ヒットし、後にスタンダード・ナンバーになるのだが、この映画の時代設定でいえば、ただのヒット曲である。
この歌の中身は純正のラブ・ソングなので、男が男に歌ったら、それは結構、異なものだ。
見ている者は一瞬、虚を突かれた感じになる。
男は言う。『次の世があったらね』
ちなみに「スロウボート」は「豪華客船」の事だけど、「叶わないこと」という意味もあるらしい。

こんなことを書いていたら電車が目的駅に着いてしまい、Facebookに一旦投書してしまったら続きを書く気がなくなって、別のこんな話を書いちゃった。

僕はどんな映画のパンフレットも買ってしまうんだが、アメリカでは映画館でパンフ売ってるの見たことないんですよね。
でも、パンフは作られてない訳じゃないようで『フィニアンの虹』『スターウォーズ』、両方とも本屋で買った。
アメリカの映画館でパンフ買ったことある人いらっしゃいます?
映画館のどんなところで売っているのか教えてください。

さて、今日もパンフを買おうと売店へ。
「パンフ下さい」
受付の女の子が言う。
「プレスシートならございます」「ン?」
聞き違えたのだと思って聞き直した。
「今はそう言うの? 昔はパンフレットと言ったんだけど」
「あ、イエ。パンフレットが売り切れなのでプレスシートを売るように、と映画会社の方から」
プレスシートは本来ならマスコミ関係者に配る(勿論、無料でね)宣伝用資料だ。それを¥500で売るとは…と思ったけど、まあ、表紙が薄手なことを除けば、どうせ資料として買うんだから、イイや。
彼女は付け足した。
「そんなわけですので中身はちょっと薄いかも知れません」

まあ、最近のパンフはシルバー料金くらいの値段を付けてる割には厚手で写真多用、資料的には不十分なことも多い。なので、マスコミ用資料として役目を果たしたんなら、それでも良いんじゃないの、と思って買ってきちゃった。
昔なら只で貰ってた物なんでバカバカしいと思えば腹が立つけど、シルバー料金が嬉しいのはこんな時だね。
パンフ買っても現役の時の値段にまではならないんだものね。
ちなみに下高井戸シネマは1日何回も上映するんだけど、その都度、上映作品が違う。
『ザ・マスター』は午後1:10-3:33の1回だけ。
てことはずーっと下高井戸に居続けて1日5本くらい別々の映画を楽しむことも可能なわけだね。勿論、入れ替え毎に外に出ないとならないのは面倒だけどもサ。
道理で売店前には最近では珍しくチラシがいっぱい。
シネマコンプレックスにもこんなに沢山のチラシは置いてないね。
現在上映分、次回上映分に今月上映予定分まであるのか全20作品くらいのチラシが並んでて嬉しくなっちゃった。
正直往復4時間は楽じゃないけど、それが悔やまれる作品でなかったのは幸いでした。

帰り着いた我が町は土砂降りが通り過ぎた後。
止みかけてはいたけれど時折、強い雨足。
丸亀製麺に寄って夕食を済ませて1日を終えました。




2013年7月13日土曜日

もう69。JJJ


誕生日の朝である。
なんと、もう69。
「モーロク爺」じゃないよ、「もうロクジューク? じぇじぇじぇ」と書いたつもりだ。

今日の深夜0時を回った頃から「タイムライン」や「メッセージ」を使って祝いの言葉を戴いています。
今年はなんか嬉しいです。

壊れた体が元に戻るわけもないので出来る限り99%の復調を目指します。

少しはマシなこと言ってから死にたい、と思うようになりました。
ラジオのリニューアルがその第一歩です。

また、2002年から地道に、あるいは地味に続けてきたWebサイトが700.000アクセスを数えたので、そのOFF会も開かなくちゃ、です。
間もなく日取りを決定しますが、Webサイトに立ち寄ってくれたことのないFB上の「友達」にもこの機会にお逢いできると良いのになー、と考えています。
大体9月の中旬辺りですかねえ、目安としては。

人々の耳目はどう集め、どう維持して行くか、にはそれなりのテクニックを持っていたはずだったんですが、それも「はず」に過ぎなかったので、新しい展開が求められているんでしょうね。
それを考え始めると、爺らしい爺になれなそうなんだけど、自分らしいジジイ像、あるいはジジイ道を見つける1年にもしたいと思っています。

まあ、僕は面白い1年になるような気がしてるんですけど、それも皆さんにも面白く思ってもらえる1年でないとあまり意味がない。
人の前に立つ仕事をしてしまった人間のアフターケアは宿命付けられたものだと思っているので、「かぜさん」として、どう、人生を締め括るかも、考える1年にします。

まあ、頑張ります。結構いつも頑張ってますが、今年も頑張ります。
Webサイトでの付き合いよりFB上の付き合いを優先させてしまってたので、その見直しも図るつもりです。

あれこれ含めてどうぞまあ1年、よろしくお願い致します。


今日は友人3人と飯を食いに行き、帰りに嵐山渓谷に寄ってみました。





2013年7月8日月曜日

上野動物園



先週、清須さんのご紹介でスタジオライブを聴かせて戴いたアルパ奏者の藤枝貴子さん。
彼女が今日、1時から上野公園内で路上ライブをやるというのは録音の際、聞き知っていた。
なんとうまいことに、次回の黒瀬対談のテーマは「動物園」としていたので、久しぶりに上野動物園に行っておこう、と決めた。
で、すぐにみんちゃんに連絡した。

みんちゃんは35年くらい前からの知り合い。ボランティアで上野動物園の案内係をしていたほどの動物通である。
みんちゃんとは僕のサイトの掲示板でやり取りしたので、この動物園ツアーに加わってくれる人が他にも現れて都合6人での見学となった。

ま、マニアのみんちゃんらしくキジ舎から始まったツアーはパンダ舎を経てから徐々に不人気動物を見るツアーの様相を帯びて行った。
ゴリラ、ライオン、虎、はまずまずのスターだが、何せ今日の気温が尋常でない35℃超。動物たちも壁際の、なぜか見えにく~い一画に身を寄せてグテーッとしてる。
木の根と同色化してるのや草のなかで眠っているのをやっと見つけたり、と展示動物を観覧するというより発見しなければ見る楽しみも味わえない、という奇天烈ツアーになって行った。

そんな訳で80分近くがアッという間に過ぎて、気がつくとKuroさんの大好きな「マヌル猫」を見てない。
それだけは見ておかなくちゃ、と思ったのだけど、なんと猫ちゃんは僕らのいる「東園」でなく「西園」にいるのだった。

長い長い(多分、僕以外の人には長くもなんともないんだろうけど)下り坂を膝をきしませながら下りて、やっと「マヌル君」に対面したところでタイムアップ。
急いで上野公園に移動した。

今日は大道芸日和なんでしょう、見事なジャグリングを見せる青年が人を集めていた。
藤枝さんの演奏は小高い丘の上。
顔面だけの上野大仏の横で行われていて、「お茶会と音楽」という看板通り、客には干菓子とお茶が振る舞われた。

ここからは今週土曜日の僕の番組でも紹介しているので是非お聴きいただきたいのだが、と前置きして…。

藤枝さんの奏でるアルパという楽器はハープの仲間でありながらクラシック臭の薄い楽器でパラグアイにおいて民俗楽器として完成した。
踊りの伴奏に使われることが多かったことから路上で演奏されることも多く、今日の演奏スタイルはこの楽器の本来の姿に近いらしい。
この楽器が音を出し始めるとパラグアイでは踊り出してしまうケースがよくあるらしいのだが、ここ上野の山では藤枝さんの奏でる『島唄』にカラスが反応してしまい、大合唱を始めてしまった。
あちこちから飛来してその数10數羽。彼らは一緒に歌ったつもりなのだろうが本来が悪声。喧しいだけだった。
『コーヒールンバ』『白ワイン』…。
南米パラグアイに思いを馳せる數十分はアッという間に過ぎてしまった。

写真は藤枝さんと娘さんを挟んで動物園ツアーの仲間たち。

上野駅横の食堂兼喫茶室のような食い物屋さんで昼食とお茶。
皆さん、暑い中、お疲れ様でした。みんちゃん、ご案内ありがとう。
藤枝さん、お疲れ様。そして楽しいパフォーマンス、ありがとうございました。
この環境で演奏を聞いてからの番組収録がベストだったなあと後の祭の後悔も…。

と言っても、参加された方の半分がFBやってないんだよね。
で、こちらにもアップ。  

夏祭り



誕生日の近辺は大抵1学期の期末試験に引っ掛かっていた。
おまけに梅雨も開けていなかった。
で、誕生日に楽しい想い出なんかなかった。

4年前に故郷に戻った。
するとすぐに持ち回りの「隣組組長」という役が回って来た。
なんと僕の誕生日はこの町のお祭り日であった。
僕は自分の誕生日を祝うどころではなく祭りの準備と世話係と後片付けに翻弄されることとなった。

祭りの担当というのは「組長」をやる年を中心に前後1年づつ計3年やるので、僕はここに越してからずーっと手伝いをして来た。
さすがに今年は病み上がりなので祭りの会議も欠席しているが来年も手伝いをしないままで済ますことはできなそうだ。
僕も含め高齢者の独居が隣組11世帯の内5世帯。年齢的体力的に全く参加できない家庭がこれまた僕を含めて4。
一見身体になんの不具合も見られない僕を来年も放っておいてくれるとはとても思えない。
きっと飲み物売ったりテーブル出したり、といった町会毎の仕事はやらざるを得ないんだと思う。
そして、自分の病状を事細かに話したくもない僕は必然的に楽しくもない誕生日を送ることになるのだと思う。

祭りが楽しいのは小学生の時だけだね。
って、異論覚悟で言ってしまう今日の僕である。

今日、我が家の先10米のお寺では保育園の夏祭り。
なんで「七夕祭り」じゃないんだろう?
子供の季節感や行事の感覚のズレはこうして生じて行くのかと、ふと、実感。  

2013年7月3日水曜日

今日も病院


夕べの天気予報では晴れマークだったのにゴミ出しをして『あまちゃん』の録画を見、さあ、9時だ、郵便局へ行こう、と思ったら雨が降ってきました。
洗濯物を干してから病院に行こうと思ったのに予定は朝から大狂い。
ただ、眠いのは雨のせいではなく、夜中に見始めてしまった『臨場』のせいです。

内野聖陽主演TVドラマの映画版。
現場検死官の話で連続ドラマの時から面白かったんだけどいつもひとつ気になることがあった。
それは主人公の周りの人が犯罪に関与しているケースが多すぎること。
映画版は容疑者を心神耗弱状態だったと主張することで稼ぐ弁護士とそれを許せない被害者側関係者の悲しみや苦しみに迫っているのだが、今回も事件に絡んでくるのは主人公が検死の手本としていた教授であり、冤罪で自殺した息子を持つ警察官である。
これまでも大半の事件は警察関係者が関与していたドラマなので主人公の周りは犯罪者だらけ、ということになってしまう。
事件をリアルにしすぎると、複雑なトリックに精通するのはいきおい専門家に設定せざるを得ないので、犯人は警察関係者になりやすいのだろうが、もっと、外に広がれませんか? という気がしてくる。

松下由樹、渡辺大、平山浩行、段田安則、高嶋政伸など手堅いレギュラー陣総出演に柄本佑、平田満、若村満由美、長塚京三らゲスト陣がイイ芝居。

などと書いている病院の待合室。
あと一人で僕の番のはずでしたが先生、急患でお出掛けになられました。
いつまで待つのか、いまのところ不明です。
どのみち、今日は最悪な1日、ということにはなるのかも。
……と、FBに投稿した途端に先生、お戻りになりました。
30分遅れにて診察再開。

不運な1日にならなくて良かった。

2013年6月29日土曜日

06月22日 『どこかでラジオが』2013年6月29日 第5回 放送分



FMさがみ で毎週土曜日 Pm.11:00~12:00に放送されているかぜ耕士の『どこかでラジオが』。

今日はその第5 回です。

お便りと音楽の一時間。
今日は番組のテーマ曲として使わせて貰っている『流れ星』でお馴染みの
ハックルベリーフィンを特集します。

送り先を間違えた1曲の歌が回りまわって僕の番組へ。
そのまま僕の番組の人気曲となった『流れ星』で知られる息の長いアマチュア・グループです。
アマチュア? そう呼ぶには不思議感のあるベテラン・グループ。
しかも在京キー局でリクエスト曲がかかってしまったこともある「有名人気アマチュア」です。
ぜひ、リアルタイムでお聴き戴くことをお勧めします。



曲は

①流れ星
②僕たちのTime Frame
③DOWN TOWN DOWN
④携帯電話のなかった時代

インターネットで「エフエムさがみ」をお聞きいただくには
http://www.fmsagami.co.jp/simul/index.html
サイマルラジオからリアルタイムでお聞き戴けます。

スマホなどでは「Tunein Radio」という無料アプリがかなり良い音で聞けます。
iphoneにもFMを聴くのにとても良いアプリが有料ですがあるようですが、「Tunein Radio」もインストールできるようですので、是非、1度お試し下さい。

放送を聞き逃した方もブログ『かぜ耕士の人生を変えないラジオ』
http://redondowind.seesaa.net/

やyoutubeで聞けます。
youtubeでは「作成者:邦義清須」をclickすると過去の放送一覧が表示されます。
youtubeへのup作業は清須さんのご厚意です。感謝!!

今回の楽曲はそのままお聴き戴けます。
ハックルベリーフィンの歌声を楽しんで下さい。
Web RadioとYoutubeへのupは明日以降の作業となります。






6/28 録り直し


今日はkuroさんと7/6日分のラジオの録音。
5曲掛けるはずが3曲しか掛けられないほど話し込んでしまった。

しかし、実は明日の放送分で大失敗をしておった。
で1本丸々録り直したんだけど同じことをしゃべっているという恥ずかしさからなのか、予定の時間内に曲もお便りも入りきらないという事態を招いてしまった。

なんかいつまで経っても上手くならんDJだワねぇ。

写真はkuroさんと。
もう1枚は、TVをやってた頃は打ち合わせの帰りに必ず食したTop'sの(正確にはサクソンの。Top'sでお茶飲みながらカレーを頼むと隣のサクソンから運んできてくれた。TBS会館の取り壊しと同時にサクソンが失くなっちゃったってこと? 真相は知らない)ポークカレー。
最後に食べた頃は1,500円位したと思うけど1,100円と妙にリーズナブルな値段になっていた。
ご飯の量も最初から指定する形になっていて、5種類ほどあった福神漬けなどの付け合わせもピクルスだけに変わってた。
で、懐かしさはちょっと失われていた。
自分への褒美としての役割はなくなったかも…。  

2013年6月28日金曜日

6/25 アメ横女学園



GMT47埼玉出身アイドルの入間しおりちゃんは東武東上線を使っている。
僕の使用線と同じである。
ハキハキしたなかなかイイお嬢さんだ。
もしかすると、通勤途上で出会ったことがあるかもしれないナ。

……などと日常会話に登場するような効果を狙っておるのだろうね、NHK朝ドラ『あまちゃん』。
宮藤官九郎さんは本当に業師だな。
爆笑問題、クドカン、三谷幸喜、真田広之…。
みんな同じ学校の同じ学部の(おそらく学科も同じ)出だ。

大学闘争の嵐の中、最後の最後まで闘い抜いたのが、その学部だった。
闘争以後、紛争に加わったことのある他大学の学生たちはその大学を「ポン大」という蔑称で呼ぶことをやめた。
何でかこの学部には高校時代、生徒会の役員を務めた連中がゴロゴロいたのを僕は知っている。

芸能界には闘争から数年後もそう呼ぶ輩がいたが、「テメエなんぞただのノンポリだから、今は誰もそう呼んでないのを知らんのだろ」と逆差別されていたことを彼らは知らない。

それからすぐの1973年頃から映画監督・深作欣二の活躍で「映画界は東大(山田洋次監督)と早稲田(今村昌平・篠田正浩監督ら)と日大(深作欣二監督)で成り立ってる」などと言われる時代が到来する。

芸能界を席巻していたジャニーズ、佐良直美、マイク真木らが同時在学中も、キックボクサー沢村忠登場時も「沢村って同じ授業とってた白羽なんだってよ」くらいの騒ぎにしかならなかったので、闘争前と闘争後では学生の質も明らかに違ってきたことがわかる。

学園紛争でこんなにも変わった大学は珍しいだろう。

今、爆問、クドカン、三谷、真田を在学生は誇りを持って語る。
深作以来だと思う。
彼らを越える人材は輩出されるんだろうか?
特に真田が"自力で"拓いたハリウッド俳優の後継者が出てくると面白いんだけどな、と僕は思ってる。
海外進出組の中で最も役柄選択に工夫があるのが真田で、その意味で頭ひとつ抜け出している。

真田が今や名優の域に迫りつつあるアンソニー・ホプキンスの愛人役を務める映画『最終目的地』は6/28(金)夜10:00~ WOWOWで放送となる。

ちなみに僕の愛読書『501映画スター』(スティーヴン・ジェイ・シュナイダー編)という国際俳優名鑑には真田はいるが渡辺謙はまだいない。





6 /24 不安定な天候


体調が天候に左右されるようになって35年くらい経つ。
18年前、心臓の手術をしてからは低気圧が力を増す度、まるで金魚が水面でパクパクと呼吸するように、僕もベッドの上で喉だけで息をしなければならなかった。
一旦、その症状が出てしまうと最低2時間、ひどいと半日はそんな状態が続いた。
何度もそれを訴えたのだが、「そういうことはありませんから!」と訴えそのものが否定され続け、僕は苦しみ続けた。
それにしても「そういうことはありませんから!」と言われる僕って何だ?

で、病院を代えて1年。
幸いにも病院で診察待ちの時、その症状が起きた。急いで心電図をとると、僕は低気圧が近づくとどうやら「不整脈」を起こしていたらしい。
それから10年。僕は不整脈からは解放された。
だが、不整脈と引き換えに雨が近づくと瞼が落ちてきて寝る気もないのに眠ってしまう、という状態になった。
雨が振り出す30分くらい前にコテッと寝てしまう。電車を乗り越すことが増えた。
眼は擦っても擦っても閉じてしまうのでやがて目薬を注すと痛むほどになった。
だけど、要するに寝ざるを得ないので予定の仕事がこなせない、という以外は困ったことにはならないのでこの10年は本当に楽になった。
まあ、この季節を上手くやり過ごせれば、本当に開放的な季節を迎えることができる、という訳なのだ。

さて、この季節に限ったことではないのだが、我が家には低気圧に敏感に反応するものがもうひとつある。
テレビだ。
霧、靄、大雨、小雨、どんよりとした曇り空、朝、あるいは夕方…。
ウチのテレビはそういう天気や時間が嫌いだ。
この傾向は地上波デジタル化以降に顕著で、まあ、番組の録画にはしょっちゅう失敗している。
スカイツリーになっても別に何も変わらんね。
よく下の写真みたいになってて「はじめての設定」から設定をしなおしている。

まあ、実際には電波の中継基地を作ってもらわなきゃならないほど、という家庭もあって、我が実家はNHKからデコーダみたいなものを3台借りてなんとか対処してる。
アナログ時代はテレビ朝日と12ch.が映らなかった。
どんな僻地かと思われようが、我が家は東京まで1時間。一応、通勤圏にある。
とは言え070の電話も圏外になることが多く、E-mobileも用を足さなくなったのでdocomoに代えざるを得なくなったりしたので、この辺り、総じて地形に問題があったりするのかもしれない。

低気圧から話がそれたが、空の向こうは黒雲。
夜半に雨でもあるのだろうか。
そう言えば瞼が何度か閉じて『5時に夢中!』を見ながら寝ていた。
で、TVを一旦消して急ぎの買い物に出て、7時からの番組を見ようとしたら、この信号。
思いあまって愚痴を書き連ねましたのサ。



2013年6月22日土曜日

『どこかでラジオが』第4 回

FMさがみ で毎週土曜日 Pm.11:00~12:00に放送されている
かぜ耕士の『どこかでラジオが』。
今日はその第4 回です。

ゲストはドライフラワー・アーチストにして歌手の 藤島 新さんと「101 Nights」

NHKテレビ『ステージ101』で活躍し、今でも活動を続けている人たちを積極的に取り上げて行こうという企画の第1回目となります。
前々回登場の清須邦義さん同様30年ぶりのレコーデングとなったアルバム『Hallelujah』を聴く1時間です。

●NHK「ステージ101」の「プリンス」と呼ばれた頃
●歌への目覚め
●『サウンド・オブ・ミュージック』出演の頃
●ドライフラワーの世界で
●アルバム『Halleiujah』で歌ったそれぞれの歌について

曲は

①愛の限界 (これが「プリンス」だった頃の歌声)

②You raise me up (アルバム『Hallelujah』から)

③Vincent (アルバム『Hallelujah』から)

④Home (アルバム『Hallelujah』から)

⑤Hallelujah (アルバム『Hallelujah』から)

この番組における外国曲の訳詞はすべて赤穂直樹君に依頼しています。
スタジオ写真で藤島さんの後ろにいるのが赤穂君です。

インターネットで「エフエムさがみ」をお聞きいただくには
http://www.fmsagami.co.jp/simul/index.html
サイマルラジオからリアルタイムでお聞き戴けます。

スマホなどでは「Tunein Radio」という無料アプリがかなり良い音で聞けます。
iphoneにもFMを聴くのにとても良いアプリが有料ですがあるようですが、「Tunein Radio」もインストールできるようですので、是非、1度お試し下さい。

放送を聞き逃した方もブログ『かぜ耕士の人生を変えないラジオ』
http://redondowind.seesaa.net/
やyoutubeで聞けます。

youtubeでは「作成者:邦義清須」をclickすると過去の放送一覧が表示されます。
youtubeへのup作業は清須さんのご厚意です。感謝!!

なおWeb Radioとyoutubeの放送では著作権の関係から楽曲が聴けません。
プリンス時代の藤島さんの歌声はやはりリアルタイムで聴いていただくのが理想的です。
Web RadioとYoutubeへのupは明日以降の作業となります。




2013年6月15日土曜日

今日も法事


朝6:30、妹からの電話で起こされた。
先週に引き続きまたしても訃報で、亡くなったのは母の甥。
5年前、彼のアパートを借りていた。
この家に住む前の5ヶ月間の付き合いだった。
彼の妹のMちゃんは僕より2歳下で、僕が預けられていた向島の美容院で働いていた。
2年ほどひとつ屋根の下で暮らした勘定だ。

母の甥Hさんとはそんな話をすることもなく、単なる大家と店子の関係だったが、住んだのが年の瀬を挟んで5ヶ月半。
郵便受けが玄関ドアの下部に付いているのだが郵便を土間に投げ込むだけの、閉まらないただの穴なので、ここから冬の冷たいすきま風が入り、部屋は一日中寒かった。
蒲団の中と外とでは気温が違いすぎて夜中にトイレに立つのが怖かった。

こんな狭い村にいるのに親戚と言ってもその程度の付き合い。
特に小卒時に村を離れたから、法事などで訪れるその家自体が自分とどんな繋がりがあるのか理解できていないことが多い。

ましてや親戚のはずの家でまるで奉公人のような扱いを受けて育つと「親戚」とか「親等」とか言う概念に亀裂が生じて、甥とか姪とかの関係が僕には長いこと理解できなかった。
多分、45歳頃、妻の弟、すなわちbrother in lowに娘が出来て、その子に会うためにアメリカに行くようになってやっと「姪」という関係を理解した。

やっぱり、無理はいけないね。
歪んだ環境の中で自分だけは健康な心を持とうとした僕はとても不健康な少年だった。
水の少ない土壌に瑞々しい植物は育たない。もっと、そうだよ、サボテンみたいにきれいな花をつけながら、近寄るものは鋭いトゲで刺すような少年に育てばよかったんだ、と今さらのごとく思う。
もう一度17歳がやれるなら狡猾な不良になってやるんだ。

二度寝の床の中で僕はまるで子供みたいな、そんな年甲斐もないことを思うのだった。
12歳でのよそン家暮らしにはやっぱり無理があったね。
この年になっても忘れようとして忘れられないトラウマになってしまってるんだもの。
ただ、このかさぶたは何となくいつも痒いので引っ掻くと結構気持ちいいのよ。
その時代を語る僕の言葉はもはや「フシ」になっちゃってるものネエ。

通夜は6時からである。

2013年6月11日火曜日

軽井沢行


友人Fがいい車を買ったので軽井沢に行かないかということになった。
友人KとBlakeを伴って出かけることになったのだが、Fがやって来た時点でBlakeは脱走した。
待つこと30分。
Blakeは忽然と目の前に現れた。
トラックに警笛を鳴らされながら、突然、現れたのだ。
一瞬、ヒヤリとしたが彼は「ハイ、散歩済ませたよ」という感じで僕の横にピタリと身を寄せた。

Blakeは車が大好きなので、今、最後尾で興味深そうに外を眺めている。
前足を掛けるところがあればもっと見易いのに。この車の惜しい点はそこだね、と不満を言ってるようにも見える。
車は快適に目的地に向かっている。
ちなみに車はBMW32ODツーリングという。

【軽井沢でメシ】

軽井沢に初めて行ったのは1968年の夏だった。

飲食店オーナーが一週間ほど別荘を貸してくれるというので創作集団「ニコニコ堂」のメンバー総勢20人ほどで軽井沢に乗り込んだ。
しかし、みんな金がなかった。
で、毎食、鍋に卵を割り入れ醤油で味付けして炊いたご飯をグチャグチャにかき混ぜた「タマゴ雑炊」なるものを喰っていた。
... 何でか旨かった。
何をするでもなく日がな中軽に出てお茶を飲んだり万平ホテルの庭で結婚式を見てたりした。
仲間の女子も一緒だったがどうやら何も起きなかった(と思う)。

この軽井沢行には路傍で落語をやって投げ銭で旅費を稼ぎながら大阪から東京まで出て来た桂朝丸さんが同行していた。
僕らは狭い事務所を寄席代わりにして関係各方面から客を集め朝丸さんを聞く会を催した。
僕は事務所マンションの下で客案内をした。
朝丸さんは3日目くらいに東京からの電話で急遽帰ったのだが、少しずつ仕事の評判が耳に入るようになり、それから5~6年後『テレビ三面記事ウイークエンダー』なる番組で突然、大ブレークした。
一緒に行った僕ら仲間は朝丸さんのブレークを本当に心から喜んだ。
朝丸さんが現・二代目桂ざこばさんなのは皆さんご存じの通りです。

それが初めての軽井沢。
スポニチ執筆の頃も軽井沢寮を使わせてもらったことがある。
続いてはTV番組の取材。
知り合いの結婚式。
と、何度かは来ているのだが、ここ何年かでその回数を簡単に上回ることになった。
何故か?
なんと、我が家からは山ひとつ越すと、そこは軽井沢なのだ。
なので妹たちはちょっとお洒落な食事会をしたい時、東京に出ず軽井沢に出る。
渋滞がなければ45分で軽井沢。東京方面へ向かうとまだ練馬あたり、ということになる。
練馬じゃお洒落じゃないべサ。ンだンだ、ってことだわね。
勿論そんんな言葉遣いはしねえだどもさ、とも言わんわね。←くどい!
とにかく季節の衣類の買い出しは軽井沢プリンスホテルのアウトレットパークだし、ゴールデンウイークとか新蕎麦の季節は母と妹との3人で軽井沢なんだわねえ。なんておシャレな元・百姓一家なんでしょ、っての。
時代は変わったね。

で、今日は友人F君の新車試乗会に招かれた格好だ。
Blake? イイよ。だってBMWって犬を乗せられるように作られた車でもあるのよ。
なんて言ってくれて食事するとこはドッグランのあるとこにしようよ。
とも言ってくれて、ドッグランこそなかったんだけど、犬同伴OKの河畔のレストランを見つけておいてくれたのだ。

生憎の雨模様になった1日だけれど、実際には帰りにちょっぴり小雨にあった程度。
万平ホテルでお茶飲んで無事帰着。
Blakeは森林浴しつつの散歩を満喫して今は自分のベッドで静かに眠ってる。
Blakeの脱走劇は想定外なれどほぼ満足な1日。
車は実に静かでスムーズな走りでした。
F君はスピードマニアらしく、時々、速度を上げたがるんだけど、何とか抑えて快適な走りの実現に努めてくれました。

F君、K君、1日お付き合いありがとう。
Blake、また今日も君と一緒に沢山歩いた。
僕は少しずつ元気になって行く。

写真は星野温泉トンボの湯と万平ホテルの庭でのBlakeとF君。


谷中界隈



80年代中頃から何度かこの辺を歩いた。
TV番組のための取材だ。
穴子寿司で有名な店や谷中墓地、富士見坂(これは単純に日暮里駅界隈の取材だったかも)など、まあ定番のスポットが取材対象だった。

『谷根千』(谷中、根津、千駄木の頭の文字をとった)という情報誌が評判になったのが大きかったと思う。
「谷根千」と括ってしまったことの勝ちみたいなところがあって、なんか響きが新鮮だったんだと思う。
谷根千は東京の山の手、文京区とまさに下町の台東区が小路一本で隔てられているような地域だから「品の良い下町」「庶民的な上町」という面白い売り方の出来る地帯でもある。
上手いところに目をつけたタウン誌だったのだ。
ただ、僕らがTVで取り上げた頃は肉屋さんに行列が出来るような騒ぎにはならなかった。あくまでも「町としての面白さ」を話題にしていたからだ。

だが、面白い町の面白い店、美味しい店が個別に取り上げられるようになって様子が一変したらしい。
人が来ればそれを期待しての新商売が生まれるのは当然の事だから変わった店がそちこちに点在してホントに飽きない。
お寺が70以上という寺町なのは特筆すべきことで、お寺が軒を連ねている、という表現が可能なほどお寺だらけ。お寺とギャラリーの密集度はもしかしたら日本一じゃないかと思うほどだ。
家の密集度も凄いね。細い街灯もない小路の両端に民家がギッシリ。それらの家の庭にはちゃんと車庫があるのだが、どうやって入れたんだと思うほどそのスペースは狭い。
車の入れない細い坂道にも民家はビッシリ建っていて、家事が出たらどうなるんだろうと怖くなるんだけど、家々の佇まいは品良く古びていて、まあ、たしかにここにはここだけの不思議な落ち着きがあるワネ。
流行りの店には行ってみなかったんだけど、久しぶりの町歩きを堪能。

この町を舞台にイベントを展開する古い友人の津布久さんに案内を請い、まさしくこの町の住人であるKuro-sanにお蕎麦をご馳走になり、とおんぶにだっこの4時間。
ほぼ普段の5日分くらい歩いてしまいました。
でも、それくらいは元気になったということでもあるな、と認識。楽しい一日でした。
帰ってBlakeの散歩。これも通常の3倍位の距離を歩いたので今夜は足がつらないように気をつけて寝ないとな。
Kuro-san.津布久さん、ホントにお世話になりました。

写真は蕎麦杉むら前でKuro-sanと津布久さん。もう一枚は風呂屋ギャラリー、谷中の町並み。  


町屋斎場


1年半ほどの間にここには2度来た。
向島の叔母もここで葬(おく)った。
TVプロデューサー澤本泰之さん。
僕がTVで最初にやった『映画 フラッシュダンス』の影武者の話でADを務めてくれたのが付き合いの始まりだった。
間もなくPに転向して僕と何本も組んでくれた。
友人Kと出会ったのも澤本さんの采配だった。

何人かのTV関係者に会ったが、とても仲の良かった一人の女性APを除いてもう名前が全然思い出せなかった。
帰りの電車で、2.3度組んだディレクターの三浦君を思い出したが、遅きに失した。
ゴメンね、三浦くん。「歌舞伎町」と「富士五湖周辺の旅」なんてのを一緒にやったよね。
忘れてることを取り繕うことさえ出来なかったよ。まるっきり忘れて欠片も甦ってこなかったんだもの。記憶力の良さだけが自慢だったのに、こんなに衰えてしまうものかね?
ホントにゴメンね。
名刺でも貰っておくべきだったんだろうけど、その世界に戻る気が全くないものだから、そういう気も回らなかった。
すまないね。

千代田線から西日暮里でJRに乗り換えた時、アレ、明日もここまで取材しに来るんだった、と思い出したよ。

2013年6月8日土曜日

訃報



仕事仲間だった製作会社の社長Sの訃報を受けた。
それも直接ではなく彼の取引先撮影機材会社に来たFaxによってだ。
そのFax内容も僕の友人Kに知らされたもので、彼が友人でなければこの知らせは遂に僕まで届かずに終わったろう。

ちなみに友人Kは僕の退院日から付き合ってくれてあと数日は我が家にいるのだが、彼が滞在していなければやはり、この訃報は僕に伝わることはなかったと思う。
何故なら「かぜさんには絶対報せが来てると思ったよ」と彼は思い込んでいた。

僕らは比較的仲の良いチームだった。
製作現場共通のトラブルは始終あったがそれが原因で二度と顔も見たくない、というようなことにはならなかった。

実は数日前の夜、妙なことが起きた。Blakeにせがまれて夜の散歩に出たKが「俺、霊を連れ帰っちゃたかもしれない」と馬鹿な事をいい始めた。
僕の家は寺の前にあり、犬の散歩コースは墓地の中の小道だ。
その晩、Blakeは突然、土を掘り返し何故かその周りで無闇に綱を引っ張ったのだと言う。
「なんかさあ、その後、肩が急に重たくなったんで、気持ち悪くって帰ってきちゃったんだ」

そんな話の最中にもBlakeは虚空に向かって飛び上がったり、何かを捕まえようとする。
「Blake、止めなさい」
とイラつく僕。
「なんか居るんだよな、Blake」
と馬鹿な事を言っては、自分で怖い材料を作り出してるK。
「くだらん!」
僕は不愉快になって寝室に入った。

社長Sがその日に亡くなったのを知ったのは昨日の事だ。
撮影会社の重役がラジオのスタジオにKを訪れFaxを渡した。

録音が済むまで僕に知らすのを控えていたKが
「あの晩、Sさん、会いに来てくれたですかね?」
「そう言えば何日か前、俺たちSちゃんの事、話題にしたな」

たまさかの偶然ではあったろう。

でも、…。
通夜は明日夜だという。
お別れしてこようと思っている。
そしてひとつ心の準備を整えたいと思った。
生前親交があり、自分を葬って欲しい友人リストはちゃんと作って判るようにしておかないとな。
もしくは誰にも知らせず独りで逝くか、を決めておかないとなあ…。

今日は膝の注射日。
クリニック玄関のツバメの巣にはもう親鳥たちは居なかった。  

『かぜ耕士のどこかでラジオが』 2013年6月8日


ゲスト(実は月1レギュラーゲスト)は清須邦義さん。
ギタリストになりたい。
そう決意した高校時代から現在までをちょっと駆け足で聞かせてもらいました。
折角楽しい話を聞かせてもらっているのだから、ある地点に立ち止まったまま、もっと詳しい話が聞けたかもしれないのに、とか反省点はいっぱい。だけど、これからもっと深化した話も聞けるはずなので、これは手合わせ、ってことでいいじゃない、と思ったり、今回限りでもう聞かないッ、って言われることだってあるんだから「手合わせ」なんて生ぬるいこと言っちゃダメじゃん、等とも思ったり…。(・・;)
この年になってもまだこんなに反省点があるってどうヨ、とも
詳しくはまた明日。
是非、お聴き下さい。


続けて本日書いたこと。

今夜の『どこかでラジオが』
毎週土曜日 FMさがみから Pm.23:00 - 24:00
に放送されています。

今日のゲストはシンガー・ソング・ライター 清須邦義さん

新アルバム『Revives』を聴きながら、ロカビリー時代の終わり頃から現在まで音楽の世界で活動し続けてきた清須さんならではの楽しい話を訊きます。

●バンドボーイの暮らし

●NHK「ステージ101」

●ビッグ・アプルに憧れて

 黒柳さんのお手伝い

●松山千春と二人三脚



曲は

①don't worry

②愛だけでは

③cat cat cat

④かたつむり

⑤音の合わないギター



『涙さらして』を何故掛けなかった、と怒る声もあるのですが、話がいっぱいありすぎて時間が足りませんでした。

インターネットで「エフエムさがみ」をお聞きいただくには

http://www.fmsagami.co.jp/simul/index.html

サイマルラジオからリアルタイムでお聞き戴けます。
スマホなどでは「TuneIn Radio」という無料アプリがかなり良い音で聞けました。
iphoneにもFMを聴くのにとても良いアプリが有料ですがあるようですが、「Tunein Radio」もインストールできるそうですよ。
是非、1度お試し下さい。

放送を聞き逃した方もブログ『かぜ耕士の人生を変えないラジオ』
http://redondowind.seesaa.net/

で聞けます。こちらにも1度お立ち寄り下さい。

今回は楽曲がJASRAC未登録のため②曲目をのぞいてすべて聞けますが、昔の清須さんの歌声を堪能したい方はやはりリアルタイムで聴いていただくのが理想的です。

写真は赤坂の録音スタジオで清須さんと。
なかなか上手に笑えない。      

2013年6月1日土曜日

改め『どこかでラジオが』

『人生を変えないラジオ』改め『どこかでラジオが』が今晩よりスタートします。

放送時間は FMさがみ にて p.m.11:00 - 12:00 です。

ゲストは放送作家 黒瀬守泰さん(kuro-san)。

今回のテーマは『ボーイスカウト』

曲は
①ピーター・ポール・アンド・マリー 『わが祖国』
②ルーフトップ・シンガーズ 『ウォーク・ライト・イン』
③エディー・ラビット 『I Love a Rainy Night』
④ウィリー・ネルソン 『On The Road Again』
⑤イズラエエル 『カントリー・ロード』

インターネットで「エフエムさがみ」をお聞きいただくには
http://www.fmsagami.co.jp/simul/index.html
サイマルラジオからリアルタイムでお聞き戴けます。

iphoneにもFMを聴くのにとても良いアプリ「iコミュラジ」(有料)があるようですよ。

写真はスタジオにてkuro-sanと。


2013年5月30日木曜日

清須邦義 4th アルバム 『REVIVES』 発売

6月から僕の番組『どこかでラジオが』(FMさがみ 毎土曜 23:00 - 24:00)をお手伝い戴くシンガー・ソングライター清須邦義さんのアルバムが発売になります。

何とも愛らしい「猫の歌」から、音楽人生の長旅を共に歩んだ相棒のギターに思いを馳せる「愛の詩」など、心地好い、けれど年輪を重ねないと顕れてこない言葉の数々が綴られています。

番組にお付き合い戴くので甘い点数をつけているのではなく、大人の作った上質なアルバムを是非、お聴き戴きたいと思います。




1. don't worry
2. 風 鈴
3. あいつによろしく
4. lovesongが止まらない
5. gone fishing
6. 畑の宝
7. かたつむり
8. 涙さらして
9. cat cat cat
10. 音の合わないギター
11. さよならサンセット

2013.5.31 on sale
収録曲 オリジナル全11曲

価格¥3,000(税込)
送料別途¥200円(複数枚同一サービス)【限国内】

お申し込みは清須さんのHPから出来ます。
http://www.kiyosuweb.com/


よろしくどうぞ。
ちなみに僕の友人でTVディレクターの金田直人君は「なんだか気持ち良くって一日中聴いちゃった」と言っております。
これが身近で聞いたこのアルバムに対する最初の声で、なるほど的を射ているように思います。

2013年5月26日日曜日

来客あり


もう40年のつきあいになるニッポン放送のディレクター藤井正博さんが4年ぶりに我が家を訪ねてくれた。
藤井さんは僕がニッポン放送で『たむたむたいむ』という番組を持っていた頃、ディレクターとして4年間ついててくれた。
藤井さんは「音楽ディレクター」として入社した人でニッポン放送の長い歴史の中でもわずか2年間しか試みられていない珍しい採用方式で生まれた社員ディレクターだ。
つまり、音楽番組専門のディレクター。
ところが、音楽全盛時代と言っても、番組には様々な種類がある訳だから、好きで得意な音楽番組ばかりに配属される訳ではない。
結局、僕の番組みたいなトーク主体の番組にも付かされた訳だ。

僕の番組には『自作自演の歌』というコーナーがあった。
応募されたアマチュアたちの歌の中から放送に乗せられるレベルの作品を選ぶのには専門の耳が必要だった。
その意味で藤井さんの活躍のしどころは用意されていた訳で、後に番組でレコード化したほどの楽曲がその耳で選び出された。
今に至るも番組屈指の人気曲であるハックルベリーフィンの『流れ星』や後にEPOとなる当時は佐藤永子ちゃんのWITHが歌う『ウェディング・ベル』、たまにーず『星の首飾り』、ピエロのR『まってます』、鈴木和『勿来の浜』など、何とも愛らしい可能性に溢れた楽曲たちが電波に乗った。

だが、藤井さんのセンスの良さが最も発揮されるのはリスナーから届いた詩を朗読するコーナーで、だった。
つまり、詩の後ろに流すBGMの選曲だ。
藤井さんが選んでくれた音楽に乗せて朗読するとすンごく読みやすいのだ。
色んなジャンルの音楽に精通しているのがよく判った。
僕は毎週、気持ち良く番組に臨ませてもらえた。

ま、この番組がラジオ時代の僕のピークなのだけど、その後の低迷期も併せて考えてみるとピークの頃はほとんど良い想い出しかないもンだね。
当然、『たむたむたいむ』の頃の聴き手や関係者と『セイ!ヤング』以降のリスナーや関係者とではつき合い方自体が全く違う。というかその後、全く会うこともない。おそらく会っても恨みつらみの類しか出てこないと思う。
上昇気流に乗り始めた人間を見守っててくれた人たちと下り坂の人間を見ていた人たちとでは僕に対する評価も当然のことながら、かなり違うよね。
藤井さんと今でも楽しく話が出来るのはお互いに力を出し合って坂を登って行った共通の体験やその過程で培った敬愛心と、おそらく無縁ではない。

僕は幸いなことに40代後半にテレビの世界で人生上最大のピークを迎えたんだけど、なんだろう、20年近く経った今もその時代を懐かしむ気持ちは湧いてこない。
学校でテレビに関する講座を持ってしまったことで、現役は退いたつもりなのに実は「完全引退」してないからなんだろうか?
とにかく、僕の中でその時代に対する評価はまだ出来ていない。

アッと言う間に4時間が過ぎ、藤井さんは知り合いの展覧会の閉館に間に合うようにと帰って行った。

一昨日のkuro-san、今日の藤井さん。
ラジオ仲間と連続して会ってなんだか楽しい週末でした。

写真は赤坂のスタジオでkuro-san と。
もう1枚は藤井さんと我が家で。
笑っているつもりなのに表情をなくした爺さんみたいに見えるのがやっぱり気になります。
まあ、ちょっと前より元気そうなのは僕にも判るんですが…。  

2013年5月20日月曜日

『孤独の報酬』

カンヌ映画祭開催の月なのでBS・CS放送では過去の受賞作特集が組まれている。
僕の今月の目玉は5/28日午後9時からWOWOWで放送されるこの1本である。

『孤独の報酬』1963年/英映画
(日本で
は1965年5月公開)
原作 デビッド・ストーリー
監督 リンゼイ・アンダーソン
主演 リチャード・ハリス
   レイチェル・ロバーツ

イギリスでは50年代から「怒れる若者たち」を描くブームがあったらしいのだが、当時の僕に外国映画の流れなんか掴めてはいない。
だって、1962年3月に見た『ウエストサイド物語』が僕の外国映画への目覚めなんだから。

目覚めて間もないのだが以来、狂ったように洋画を見まくり、作品選びの勘のようなものだけは掴みかけていた僕は時勢に傾く形でやがて「アートシアター系」へとのめり込んだ。

1961年末、新宿伊勢丹四ツ谷側向かいに「アートシアター新宿文化」という映画館が出来(1962年本格始動)、それまでなら上映を見送られていたような芸術映画を次々に公開し始めた。
映画の跳ねた夜には実験的な演劇公演も行われた。
「芸術」は僕にはちょっと難解ではあったが、なんとか必死で食らいつき理解しようと努めた。

勿論、1962年が洋画初体験なので62年公開の『野いちご』も63年公開の『二十歳の恋』も見ていない。1964年8月公開の仏映画『かくも長き不在』(監督 アンリ・コルピ)がアートシアター初体験だった。
もう大学2年だった。
なんだかものすごく高尚なものに触れた気がしてこの種のテイストに夢中になった。
アートシアター2度目に出会ったのがイギリス映画『孤独の報酬』だった。
炭坑夫上がりのラグビー選手が下宿先の未亡人に恋してしまう。
男は女に喜んでもらおうと好プレイを連発。チームの要にまでなるのだが、なぜか思いは女に伝わらない。高価な贈り物も優しい言葉も夫人には響かない。
男はやがて凡ミスに終始する無能な選手になってしまうのだった。終わり。
オイオイ、終わりかよ。
映画館から放り出された僕は固く閉ざした心を二度と開かないまま死んでしまった未亡人のその心の裡を知りたいと葛藤する内、いつか主役のラグビー選手と同化して一緒に深い人生の闇間でもがき始めていた。

リチャード・ハリスはこの映画のなかで何種類かの声のトーンを使い分けるという見事な演技術を披露する。
絶望、失望、野望、希望…。
絶望の底、壁を這う蜘蛛を素手で叩き潰した瞬間、僕は彼と共に呻いた。
そういう芝居を知らなかった僕はこの役者にコロリとイカれた。

イカれてから気付いたのだが僕はこの役者にすでに二回イカれていた。
一度目はマーロン・ブランド主演の『戦艦バウンティ』の水夫。2度めはこの映画の上映が遅れていたために先に見てしまったチャールトン・へストン主演の『ダンディ少佐』だ。
二つとも大スター主演の娯楽作品で『孤独の報酬』とは全く味わいが違う。
曲者水夫を演じた『戦艦バウンティ』では逡巡するマーロンの後ろを「ねえ、ま~だァ」と反乱を促して通り過ぎる。その誘い方に挑発水夫のズルさも苛立ちも見えた。
なんだ? この役者、の一回目であった。
『ダンディ少佐』はヒロインが大迫力肉体派美女センタ・バーガーなのでその迫力にいささか食傷した僕はチャールトン・へストンを向こうに回して一歩もヒケを取らない新顔俳優(もう新顔とは言えなかったわけだが)に、なんかスゲエぞ、コイツ、の二度目の出会い。
『バウンティ』とは役の比重が比べ物にならないほど大きくなっていたので、あの、曲者水夫だとはとても気づけなかった。
そう、相手役のセンタ・バーガーよりリチャード・ハリスの方がこの映画ではセクシーなんだ、どういうわけだか。
後に、『男の闘い』でショーン・コネリーを向こうに回したときもなぜかリチャード・ハリスの魅力が際立った。
実際には甘さが皆無なので映画雑誌に登場することも少なく、1977年版『キネマ旬報俳優名鑑』でも彼の写真はない。
そういう男臭い個性になぜ魅かれたのかは解らない。
だが、このテイストの役者にイカれたのはあとにも先にも彼だけだ。

リチャード・ハリスは『孤独の報酬』でカンヌ映画祭主演男優賞を受賞。アカデミー賞にもノミネートされてイギリスからハリウッドへと渡り、以後、20年、主演作が作られるのだが、いかんせんハリウッド・スターの甘やかさはない。
『赤い砂漠』『テレマークの要塞』『キャメロット』『馬と呼ばれた男』『クロムウェル』『ジャガーノート』『オルカ』『カサンドラクロス』『ワイルドギース』etc.
目覚ましい活躍ぶりなのだが、日本での知名度は全く上がらなかった。
おそらくはアメリカでも活躍に比例した評価は得られていなかったんだろうと思う。
アン・ターケルと言うモデル上がりの女優に熱をあげ、共演しているのなども不興を買っていたと言う。
やがてアル中、薬物依存で10年を棒に振り、だが、さすがだ。90年代に甦る。
1990年『ザ・フィールド』で28年ぶりにアカデミー主演男優賞にノミネートされると、徐々に脇へと回って、1992年イーストウッドのアカデミー賞作品『許されざる者』の英国没落貴族のガンマンで見事な落ちぶれ人間を演じてみせた。『潮風とベーコンサンドとヘミングウェイ』の爺さんぶりに年輪をみせ、『グラディエイター』『ハリー・ポッター』『モンテ・クリスト伯』では落ち着きどころの見事な大役。
そして2002年、ついに別れの時がくる。遺作は『ハリー・ポッターと秘密の部屋』。
ダンブルドア校長によってなぜか「名優」と呼ばれるのだが、本当にそう思ってたんなら、もっと早く言って欲しかったよ。

今、ネットで「リチャード・ハリス」を検索すると、時々、僕の名前が一緒についてくる。
それは僕が映画の他に、彼の歌声も愛し、番組のテーマソングとして使っていたり、時々、彼の歌った『スライズ』と言う詩を朗読することがあるからだ。
ディスコソングとして知られてしまった『マッカーサーパーク』は彼が創唱した歌で実はミリオンヒットを記録しているが案外知られていない。
『マイボーイ』は彼が2番手を務めた佳作『ワイルドギース』を彷彿させる名唱で森山良子さんがカバーしている。
僕がテーマに使っていたのは『ブルー・カナディアン・ロッキー・ドリーム』。
物語性の強い佳曲で一聴すればきっと好きになると思う。

『孤独の報酬』は僕に長い映画の旅と素敵な歌の旅を教えてくれた記念の作品だ。
機会(機械も?)があったら皆さんにもぜひ見ていただきたい映画です。





2013年5月19日日曜日

下北沢


久しぶりの下北沢は御他聞に漏れず駅の工事中。
改札口まで1度エレベーターを乗り換えなければなりません。
病院終わりの身にはちょっとコタエマシタ。
構内の整備がすっかり終わるのはいつのことでしょうね。
それまではあんまり行きたくなくなっちゃったかも…。

今日は僕らが若い時お世話になった音楽プロデューサー寺本幸司(ゆきじ)さんの個展。
「僕ら」なので、個人ではない。
1972年、僕らの作ったグループ「HELP!」にスポーツニッポンの1ページを毎日任せてくれる、という願ってもない仕事を持ち込んでくれた方が寺本さんだ。

寺本さんご自身は浅川マキ、りりィ、桑名正博らを発掘育成した人ですでに多忙な方だったが、僕らは「寺さん」と呼んで対等にお付き合いさせていただいた。
僕らはその仕事をわずか1年で放り出してしまい、後に脚本家として名を成した高田純、作詞家として成功した石原信一らに成功への道を譲った。
「道を開いてやった」のでないとこがこの話の情けないとこだね。
単に内部分裂で仕事を譲っただけ、という…。

そのグループには後にTVのリポーターになる生江有二(現・ドキュメンタリー作家)、ラジオで売れっ子放送作家となる黒瀬守泰、『サルビアの花』をすでに発表していた相沢靖子、イラストレーターとしては後に推理小説界の寵児となる島田荘司などそうそうたるメンバーが名を連ねることになり寺さんは常に相談役としておそらくは厄介な責務に耐えた。

そんな関係なので僕らはスポニチの文化部長だった小西良太郎さんを中心に何となく名目を作っては寄り合うことが多く、寺さんは今でも大事な相談役だ。
ちなみに僕が敬愛する小西さんは、定年後は役者になるのだ、という積年の夢を叶えて、現在、歌手の川中美幸さんの一座に座員として所属し、部隊ではいつも大役を務めている。
しかも上手いんです。
寺さんは何を思ったのか(が、本人の弁)突然絵を描き始め、今回、個展を開くことになった。

お近くの方はぜひ行ってみてください。
微妙な感想で申し訳ないのですが「なんか楽しめます」
会場となっている下北沢「ぐ BEAT FACTORY」の60年代テイストと見事なハーモニーを奏でていて、そう、なんか楽しめるんです。いいコラボです。
5/26日まで。20日だけ休みです。

写真は会場前で。

2013年5月17日金曜日

朝からピーカン



とっても良い天気なんだが、今日は膝の注射の日。
クリニックの入り口、足拭きマットが汚れてないので、思わず天井に目が行った。
10日前、頻繁に飛来した燕。
彼らの巣に鳴き声も子燕の姿もなかった。
それどころか巣の一部は崩れかけている。
看護師さんに訊くと、どうやらカラスの襲撃を受けて子作りを諦めたらしい。
去年は蛇に侵入されて子が全滅だったんだとか。
「でも、クリニックの周りにいっぱい巣が出来てますから大丈夫だと思いますよ」
だそうだ。
ちょっと安心。

さあ、間もなく診察が始まる。  

ラジオの打ち合わせ 2

今日は授業のあとに西武池袋線中村橋に移動。
駅から3分、練馬美術館の隣のビルの喫茶室で藤島新さんと打ち合わせでした。

新さんは清須さんと同じくNHK-TV『ステージ101』のメンバーだったのですが、勿論、当時はすれ違ったことさえありませんでした。
僕はその番組に『涙をこえて』という歌を書いた、という以上の関わりはなく、出演者たち(すなわちヤング101)との関係は極めて稀薄なものでした。
2001年にNHK『思い出のメロディ』で相当数の「ヤング」たちが集結。それが2003年の「ヤング101」復活コンサートへと広がって行く時、構成の井上頌一さんから手伝いを要請されて彼らとの付き合いも少しずつ深まって行ったのです。
それをきっかけにメンバーそれぞれのHPなどを覗かせてもらっている内、少しずつ人となりにも触れることとなったのです。

新さんにはコンサートの数ヶ月後に1度お会いしていたのですが、僕は彼のHP(と言っていいのかよく判らないのだけど)のBBSを読むのが好きでした。
彼は時折、映画について書いていて、いつも、なんだか良いテイストの作品を紹介していました。
ン? ちょっと観てみようかな、と食指をそそられることが多くて、そのチョイスのセンスに感心してたりしたのです。
ある時、『デブラ・ウィンガーを探して』というドキュメンタリー映画について書かなければならない事態が起きました。
確かめたいことがあって、Amazonへの出品者から急いでDVDを購入したのですが、なんとこれが全く映らない。再生機3台全部ダメ。PCでも失敗。締め切りは迫ってる。
誰かこれを持ってるって話、どっかで読んだか聞いたかしたよな。
このところ、気にして読んでたネット上の映画情報ってどれだっけ、と思ったらすぐに新さんのページが思い浮かんだのでした。
早速、電話させてもらい、借りて、事なきを得たのですが驚いたのはその対応の速さ。感謝と共に僕は尊敬の念すら抱いてしまった。尊敬ではどっか感じが遠いので「敬愛の念」と言い換えるべきかも知れない。ま、ファンになっちゃったのですね。

で新企画を立ち上げるに当たって、なんか藤島さんとやりたいな、と思ったのだ。
そうそう、僕はスマホを使うようになってから、原稿を書くときには決してしないローマ字打ちをしてるので簡便に済ませたいというだけの理由でFB上では「新さん」と馴れ馴れしく言ってるのだけど、会うときはちゃんと「藤島さん」って言ってる。時々は「新先生」とも言ってる。
と言うのも新さんは歌手であると同時にフラワー・アーチストとしても多忙で何人ものお弟子さんがいる。「先生」と呼んでなんの不思議もないお方でもある。

新さんのFBには時々、仕事上不可分な花の写真が載ることもあるんだけど、実は硬派な政治ネタが紹介されていることが多い。
紹介の振りを読んでいて、今の日本の音楽からはメッセージが消えてしまったな~、思うことが何度かあった。
今、必要なのって、メッセージ精神じゃないのかなあ、とふと、考えた。
新さんと「メッセージソング101」なんてコーナーをやってみたいなあ。そう思った。
黒人霊歌の中にある棉花摘みの歌や、ウディ・ガスリーの砂嵐難民のブルースを経て、ピート・シーガー、ボブ・ディラン、PPM、ジョーン・バエズ、下ってブルース・スプリングスティーンやトレイシー・チャップマン、カニエ・ウエスト、レディ・ガガなどのフォークソング以降のメッセージソングの流れや、そこから派生した日本の優れたメッセージソングなど紹介したら101曲はすぐ見つかるんじゃないのかなあ。
そこに新さんのその歌への感想が加わったらかなり面白いものになるんじゃないかな…、なんて考えた。
でも、折角、新さんに出てもらうのだから「101」ファンにも聞いてもらいたい、という損得勘定は当然あった。
で、ヤング101出身者の歌を「1週1アーチスト」ずつ紹介してみたいな、とも考えた。
現役を張り、新しいCDを皆さん作ってらっしゃるのに、一度もどこでも紹介されないなんて勿体なさすぎる。どれほどの宣伝効果があるのかはまだ未知数だけど僕はそれを紹介したいと思ったのだ。5曲くらいは必ずかけられるもの。
それにはその関係者がパートナーとして絶対に必要なんだ。
だって、僕がある日突然、ヤング101の楽曲を1時間丸々かけ始めたらあまりに唐突でしょ?
で、新さんにパートナーをお願いした。
新さんのシンガーとしての存在も印象づけられるし、ちょっと硬派なテーマにも取り組んでもらえる。
僕が「こんなことしたい」と言ってるだけなので、僕だけが暴走してるだけなのかもしれないんだけどま、1回手合わせしてみれば手応えは得られるのじゃないか、と妄想している。
これまでは喋り続けるだけ、の番組作りしかして来なかったんだけど新さん清須さん、kuro-sanの助けを借りて音楽番組をやってみよう思っています。

リニューアル1回目の録音が済んだら改めて報告させてください。

打ち合わせの途中で激しい雨と突風がありましたが、番組の方は順風が吹いてほしいと願っています。

2013年5月10日金曜日

5/9 ラジオの打合せ



今日は東松山の病院で定期検診のあと渋谷まで。6月からリニューアルするラジオの打合せです。
東上線で和光市まで。元町・中華街行きに乗り換えて渋谷まで。
なかなかスムーズに行けたんだけど降りてからがチョッとね。
上りエスカレータだらけで下りエスカレータは一機も見当たらない。
帰りをどうしようかと思案したね。
エスカレータで僕の前にいたお年寄りなんか下り階段だけのこの駅、一人では帰れないよね、多分。
すごく不安そうに渋谷の雑踏に消えて行った。

東急プラザ2階のcafeにて歌手以外にも様々な顔を持つアーチスト、清須邦義さんと。
これまではすれ違い程度の付き合い。
きちんとお喋りするのは初めてだったかもしれない。
ただ、以前に『涙をこえて』について書く企画があり、その歌を歌ってくれた人たちの来し方については一度かなり詳しく調査している。
ま、それですべてを知った気になっている訳じゃないんだけど、ラジオでのパートナーになってもらうための僕の勘所はそんなに狂ってないと思う。

清須邦義さん。
僕の知る中では新しいことに一番触覚を伸ばしている人だ。
アンテナが錆びていない。面白い話を聞かせてもらうのには最適な人だと思う。
新しい音楽シーンについて色んなニュースを聞かせてもらおうと思っています。
聴く人との接点をどんな風に設定するかは、探りながら、って感じかな? 60歳過ぎの二人が最初っから澱みない旧知のごとき滑らかなトークを繰り広げられるか、と言ったらおそらく無理でしょ。
二人とも訥弁系なので、ま、徐々に、ってことで。
様々な意味で面白い展開になればなあ、と思っています。

ちなみに2 shotは勿論撮りましたが掲載はナシ。
帰りは山手線で池袋まで。
明日の授業に着て行く服を見つけてみたけど高過ぎて手が出せない。
金に糸目をつけずにモノを買ってたのはいつのことだ、とブツブツ言いながら、結局、ユニクロで間に合わせたよ。
高い衣服はもう少し稼げたら、にするワ。
トンカツ「和幸」でロースカツ定食食って午後8時の池袋発。
今、森林公園で発車待ち合わせ中。あと5分で我が家駅である。

2013年5月7日火曜日

燕の巣



中華料理の話ではなくこれは本物の燕の巣。

今日は連休明けで膝の注射の日。
いつものクリニックへ出かけたのだが玄関の軒に時々ツバメが飛来する。
なかなか中へ入ってこないので、目を凝らして見ると何と玄関の軒の内側に巣が作られていた。
道理で泥拭きに枯草が落ちているはずだ。
けれど玄関には開院待ちの客が次々。すでに列を作り始めている。
そうか。
ツバメたちは病院が黄金週間に入って、客も看護士も誰もいない休みの間にセッセと巣作りをしてしまったのだ。

巣は手を伸ばせば届くところに作られている。
目の当たりにするのは久しぶりのことだ。

この辺はしばらく前まで完全な農村地帯だった。
いまでもまだ稲作農家が少し残っている。
で、こうしてツバメもやって来るのだが、軒を貸してくれる家は無くなっているのだろう。

昔、我が家では家の中に巣を作られてしまったことがあり、その夏は遂に玄関の戸を閉めることができなかった。

ツバメは帰巣癖があるらしく翌年も家人がうっかり戸を閉め忘れている間に巣を作ってしまい、それは数年に及んだ。
ツバメが渡って行くまでの梅雨時、我が家では夜以外、戸を閉めずに暮らした。
ある年、誰かがツバメが餌取りに出掛けているとき、うっかり戸を閉めて野良仕事に出掛けてしまったことがあり、それを境にツバメは二度と我が家にやって来ることはなかった。

クリニックの軒先のツバメはコレからどうするのだろう。
このひと夏、この軒に餌を運び続けるのだろうか?

さ、クリニックオープン。 話の途中ですが受付へと急ぎますので、これにて御免。  

2013年5月6日月曜日

dog-run RANZAN


午後1時半。
天気が良いので近くのドッグランへ。
前回¥500-だったのに、今日は¥700-になってた。
「一面はイべントで使ってるので奥の方で遊ばせてください」
と言うことだったんだけど、隣の囲いに入ろうとしたら、
「こっちで一緒に遊びませんか」
と誘ってくださる。
有り難く仲間に加えて貰い、ブレイクは音楽に乗って他の仲間と「ストップ」や「オスワリ」を体験した。
一緒に暮らし始めた頃、その訓練はしたのだけど、強制したことはなかった。なので、仲間たちがやるのでそれに倣い、思いの外、素直に従うことにビックリ。
ストップする度に裏返しになっているカードを拾い、そこに書かれた数字の合計点で賞品が戴けるのだが、何とブレイク、128点も獲得して第3位に入ったのでした。
なんか良さげな賞品でしたよ。

時々、怪しい動きはするんだけど、他の仲間にいやがられることなく遊びの時間を終え、集まった人たちの評価は「大人しい良い子ちゃん」。
森林公園でのドッグラン体験はとても大事なものだったみたい。
しかし、事件はそのあと、やっぱり、起きました。
起きないわけ無いような気もしてたんで、逆に納得だったりして…。

子犬の多い囲いから一番遠い、柵の高い囲いで遊んでいる内は良かったんですが、他の犬たちがほとんど帰ってしまったので、最初に逃亡した囲いに移したのが仇となりました。
何と「補修しましたから」と言ってた場所は以前のままだったようです。
ブレイクは前回同様、我々をすっかり油断させてから、トコトコと問題の箇所に近付くと、アッと言うまに草深い田舎道へと走り去ってしまいました。

まあ、すぐに戻るとは思ってたんだけど、のんびり帰りを待っていたんでは、仲間に迎え入れてくれたイベント関係者たちが帰路につけない。
僕はまた廃屋となりつつある実家への道を歩いた。

僕が実家の庭にたどり着いた時、後ろから
「か~ぜさん、帰ってきたよーォ」
と友人Kの呼び声。
一件落着。イベントの人たちに挨拶して帰ってまいりました。

訊けばイベント主催者は近所で動物用ケア商品を扱うお店。
ぜひ、一度うかがってみようと思う。

考えてみるとブレイクはドッグランにいる間じゅう一言も発していなかったが、あれでコミュニケーションは出来ているのかな?

帰り道はデジカメプリント中にいつものうどん屋で「すき焼き鍋うどんセット」。
冬物の洗濯物を受け取って午後6時帰宅。
沢山遊んだブレイクはさすがに満足したようで、大人しく眠りにつこうとしています。
めでたしめでたし。チャンチャン。  






2013年4月27日土曜日

4/27  6月からの『人生を変えないラジオ』


大幅にリニューアルして週1放送にします。

タイトルも
『かぜ耕士の乾燥ワカメただいま増量中!』...
などというのを第1候補に考えています。
予想外に増える、スープにすると美味そう、というところからの発想です。

月1レギュラーお一人目に
シンガーソング・ライター兼ギタリスト兼音楽プロデューサーの清須邦義さん。
1週1アーチストの特集で「この人が聴きたい」というのをやってみたいかな、と考えています。

お二人目は
フラワーアーチストにして歌手の藤島新さん。
NHK『ステージ101』では「プリンス」の異名を取っていたこともあります。
新さんとは「101ナイト」をやろうと思っています。「ステージ101」の現役達の歌を1週1アーチストで特集したいと思っています。勿論、昔の歌もかけますが現役で頑張る人たちの応援ができればな~、という思いが強いです。
でも折角新さんとやるんですからちょっと骨っぽい企画もやりたいと思い「メッセージソング101」というコーナーを設けて古今東西のメッセージソングを1週1タイトルずつ紐解いてみたいと思っています。

三人目は
黒瀬守泰さん。ラジオの放送作家として大活躍した人です。何度か手合わせはすんでいます。
60~80年代にかけての「モノ物語」から話を始めたいと思っています。
そうだな~、サイクリング自転車、とか、咳止めドロップ、とか、ボーイスカウトとか、モノから始めて番組を作ってみたいなあ、音楽もその時代に則したものにしたいな~、なんて。

あと1週はやっぱりお便りを読みます。

月5週あるときは映画の話でもしましょうかねえ。
ともあれこの番組が人生最後のラジオ番組になるかもしれないので、ちょっとちゃんとしたことをやっておこうと思いました。
そのために人のてを煩わすんですから手前勝手な話ですが、ここからなにかいい展開は生まれないモノだろうかとも考えています。

あっ、『涙をこえて』についての本は永さんにもお話ししてしまったので早急に取りかかるつもりでいます。
ご期待いただきたいと思います。
とFacebookには書いたのだが、このサイトにお集まりの皆さんからの反応は思ったほどではなかったことを報告しておきます。

正直言うとかなりめげました。




4/26 そばアレルギー

大好物のそばにアレルギーがあると知ったのは去年の10月のことだ。
以来、うどんに切り替え我慢を続けてきた。
でも、どうしてもそばが喰いたい。
そこで、別の病院でもう一度アレルギー検査をしてもらった。
ちょうど目が充血して仕方ないので花粉のアレルギーも知りたいと思ったのだ。
...
検査結果が下の写真。



アレルギーは検出されなかった。
結果が変わった理由は解らない。
でも、
そばが喰えるぞォ! めでたい!

2013年4月23日火曜日

4/23 あの日のドッグラン

10日前にブレイクが逃走した、実家そばのドッグランに行ってみた。


ブレイクが逃走できてしまったことに対する「1回無料券」を無駄にしたくなかったからだ。ケチ、多分。

「直したんですけど1番柵の低いとこを使ってください」

低いところだと飛び越えちゃうんでこの間も2番目のにしたんだけどな、と思ったけど、言われる通りにした。

... ブレイクは遊び場に入った途端、様々な隙間をチェックしたが簡単には出られなさそう、と諦めたらしく、今日は目一杯走りを楽しんだ。

ただ、途中で一度、柵の下を掘ろうとした。油断ならないぞ!



実家そばから我が家まで徒歩30分弱。

途中でお袋の家にご機嫌伺い。

元気そうだ。

どこの婆さんもやるようにTVを見ながらメモを取っている。

毛筆で、というのがちょっと変わってるか?

安心して帰ってきた。

30分の歩きに耐えられたってことは体力も大分、回復傾向か?



写真はドッグランで。

そして、疲れ果てこんな寝姿。