2013年12月8日日曜日

リハビリ・ハイ


前回の記事から遠くなりすぎたので頭から話しますね。

「この病気の救いは、いつか治る」ということです、という妙な病気で入院したのは今年の8月11日のことです。「ギランバレー症候群」。症状の出方がそれぞれ違うのでまだ対処法もなく、患者は10万人に1人、珍しい症状なので「難病」指定を受けています。

「いつか治る」というこの症状の特徴は「末梢神経が直撃されてしまう」というもので、なるほど早い人は3ヶ月で完治したと言うし、「私の担当した方は3年半かかりました。80%の方が歩けるようになり、60%の方は駆けることができるまでに回復するそうです。ただ、治らないうちに寿命の尽きてしまう方も…」だそうなのでそんなに楽観的になってイイ病気でもないらしい。ま、病気を楽観視する人はいないと思うけど、他人の病気なんてそれこそ「他人事(ひとごと)」だしねぇ

9月18日。現在のリハビリ病院に転院しました。

ただ、このリハビリ病院は患者を3ヶ月しか置かないことを規則としています。
マ、多くの病院がそうだ(最大でも5ヶ月までとか)と聞いてはいましたので、患者も療法士も3ヶ月を目処にリハビリを始めます。
「入院は6ヶ月を覚悟していて下さいね」と言っていた病院の紹介でここに来たのだから、あの主治医は大袈裟なのさ。頑張れば3ヶ月で治るんだよ、きっと。
などと不安を無理矢理振り払い、当然、僕も3ヶ月で家に歩いて帰る、を目標にしてリハビリ生活に入ったのです。
しかし、退院があと半月と差し迫った今、僕がしていることと言ったら、病院内での日常生活は歩行器使用、リハビリ自体は杖、あるいは杖ナシ歩行の訓練といった段階。しかし、療法士の見守りなしに1人で歩くことなど全く困難なのだから、僕の退院予想図には大幅な狂いが生じていたのです。

ところが普通の身体の人ならここまでやれれば「祝・退院」という話も出るんでしょうが、僕の場合は「歩く」と言うにはほど遠く、まだ「動く」ロボットと変わらないんですね。突然誰かに目の前を通られると倒れます。とっさに転倒を防ぐ反射神経が元に戻っていないからです。
末梢神経という末梢神経をほとんどやられているらしく、かかとはやっと地面を感じているのですが、爪先は何も感じてくれません。
当然のように手の指先も感覚は鈍い。指の腹で触っただけでは1円玉と100円玉の区別が出来ません。大きさ、重さ、デザインの凹凸。情報を駆使すればすぐ判るはずですが、指はこわばり、肌触りの良くない手袋をしている感じ。つまり足も手も訓練しないことにはなんの使い物にもなりません。
タオルの上でコインを拾い、それを貯金箱に入れる、という一連の行動が出来るようになったのはわずか3週間前です。今では机の上のコインを拾うことも出来るので、ま、訓練の成果はそれなりに得てはいるのですが…。

口の左から息が漏れて、頬を膨らませることが出来ないのは多分、顔の筋肉を鍛えれば良い。
でも、手足の痺れは…? 多分自然治癒を待つことか、ある日突然訪れる「ハイジの大親友」の奇蹟を待つくらいしか方法はない。
ただ、自然治癒を待っていても「いつか治る」の「いつか」が判らない限り、ノンビリ待ってもいられないのですから、人間のするすべての作業を身体に強制的に覚え込ませてしまうわけです。
「歩く、ってのはこういうことだァ」「ネジを捲くってのはこういうことだァ」「メシはこんな風に喰うんだァ」
と無理矢理身体に覚え込ませるわけですね。

人間の一生を0歳からやり直してる気分になりました。
だって、這い這いの練習だってやるんですから。

知能的には何が失われ、何が残っているのかを調べるために一ヶ月くらい掛けてIQテストもしました。
だけど、「出来る問題」については屈辱を感じ、「出来ない問題」については「こんな問題が出来なくなっちゃったのかぁ」と喪失感と敗北感にとらわれます。一挙に鬱状態に向かい始めたのはこのころです。9月下旬から10月半ば頃までですかねぇ。
色んなことに腹が立ち、他人の言動のアラに気づいてしまいます。見つけてしまうのでなく、とても些末なことにまで神経が働くようになってしまったのです。厄介なこった。

例文「今日はクリスマスなのでケーキを買って夜、家族みんなで食べます」
問①「何故ケーキを買ったんでしょう?」
問② 「ケーキは誰が食べましたか?」
問③「ケーキはいつ食べましたか?」
問④「今日は何でしたか?」
てな問題に真面目に答えないといけないわけです。

逆に数字が4桁になるともう全然頭に入ってこず、ほぼ全滅になります。
「4279、コレを数字の若い順に並べ直して下さい」
「5た9し3か、ひらがなだけをアに近い順に並べて下さい」

ジグソーも時間切れすることが時々ありました。

このリハビリは「スピーチ・セラピー(ST)」の中で行われ、他に「オキュペーショナル・セラピー(OT)」「フィジカル・セラピー(PT)」と1日3つのリハビリをこなします。
1つ1時間で土日も休みはありません。ちなみに年末年始も休みはありません。

この病院に来た当初は車椅子からベッドに移るのがやっとの体力。誰かに支えていて貰わない限り、立っていることもままなりませんでした。
車椅子に座っている体力もなく、15分でクタクタ。トローンと眠気が襲ってきて、血圧を測ると決まって100を下回る数字。
リハビリも1時間こなす体力はまるでなく、毎回40分位で切り上げて貰う始末。
「かぜ耕士としての復帰はもうナイだろうが、山田功という人生に復帰することは出来るんだろうか?」
絶望感ばかりが襲ってくる日々でした。

主治医に「向精神薬を下さい」とお願いしたのも思えばその頃でした。
いつから飲み始めたのかはメモしていませんでしたが、ある日、朝食後の薬を飲み忘れたのです。
気づいたのは昼食のあとでした。
ま、飲まないよりは飲んだ方が良いだろうと急いで飲んで、午後のリハビリに備えました。
夜の薬との兼ね合いがふと心配になりました。
朝夜2回の服薬なので夜に飲む薬の中に同じ薬がある。
時間が短すぎて効き目が強くなりすぎるって事はないのだろうか、と普段なら心配性が顔を出すところなのだが、この日は違った。
「そんなに心配なら吐き出せばイイじゃん」とやけにクールなのだ。
「もう胃の中で消化され始めてるんだから、今更悩んだって仕方ないじゃん」と楽観的でもある。
そのまま、リハビリに突入したのだが、どういうわけか妙にご機嫌。
リハビリの先生たちに軽口をたたいたり、動かぬ顔の筋肉を無理矢理動かしてでも笑ってたかったり、で1時間を楽しく乗り切ってしまった。
オレらしくない、妙にハイだ、と思ったのはそれから数日後で、向精神薬の効き目というのはこういうものなのだ、と理解した。
ともあれ、その後、他人の言動でひどく傷ついたりしたこともあったが、それでリハビリに支障が出るようなこともなく、「降圧剤」を服まなくなったら血圧も落ち着いた。

さて、すべてが楽しくなり始めた11月5日、「家屋調査」なるものが行われた。
OT、PTの先生と僕担当の介護福祉士、プラス僕と僕の家族1人が立ち会い、退院を視野に入れた改修工事の計画を練るためだ。
ただ、リハビリ病院に転院してひと月半。僕はやっと歩行器を操れるようになったばかりで退院後のイメージなどまるで浮かんでこない。
家の中を自由に歩き回れなければ「治った」とは言えないわけだが、自然治癒にしか委ねられない部位もある身体なので、「完治」での退院はない。
身体中の肉が落ち、筋力がほとんどない現在の状態から脱するのに2年近いジム通いが必要だともアドバイスされている。
退院までの猶予1ヶ月半。クララの奇跡が望めない今、家の中を歩行器で動く、というイメージの下で改修工事を考える以外手はなかった。

しかし、発症から3ヶ月。家はあの日のまま汚れ放題だし、おまけに発症の一日前に介護事務所のお世話でベッドを運び込む計画があったから、その場しのぎで家具が移動されていた。
家の中で空いている場所と言えば、僕の帰りをひたすら待つ愛犬Blakeの通り道くらいだった。
いやいや、コレでは退院しようにも帰る家がないも同然だ。
急いで大掃除して12 月半ばまでに必要な工事を済ませて貰わねば。

ところが不思議だねぇ、それほど焦った気分にはならないんだね。
多分、薬の効き目なんだろうけど、じゃ、あとひと月半で歩けるようになってやろうじゃないか。
僕はかつてないほど前向きな気分になって1課目1時間、1日3課目をこなすリハビリを全科目40分にして貰って1日4課目、歩くためのトレーニング主体のPTを1日2回やって貰えないだろうか、と提案してしまった。
時間を増やせば歩けるようになる、ってものでもないけれど、僕の声は思ったより人の耳に届くようになっていたらしく、言葉も明瞭になり、「ン、今なんて言ったの?」と訊き返されるようなことはなくなっていた。
つまり、僕の中で「リハビリ=努力は報われる」という公式がなりたち始めていたわけだ。
勿論、STの先生方はラジオパーソナリティだった僕が50音を正しく発音できるようになれば、自信の端っこくらいは掴まえるんじゃないか、という計画をキチンと立てていてくれたのだと思うのです。
発音が困難だった「ハ行」「バ行」「マ行」の単語を組み合わせた文章や音の組み合わせを集中的にトレーニングしてくれました。
結果、まず最初に言葉がリハビリ効果を顕しました。すンごく嬉しかったです。

そんな時期にWAHAHA本舗の社長兼演出家・喰始が見舞いに来てくれたものだから、リハビリ室には一瞬どよめきが起こる始末。なるほどイギリスの少年みたいな焦げ茶をベースにした半ズボンの彼は絵本の中の少年のように可愛いおしゃれな爺さんでした。
「お~い、久しぶり、かぜ耕士ィ~」
いつもの調子の喰ちゃんでしたが、実は受付で「かぜ耕士」の名前しか思い浮かばず、何人かの古い知り合いに僕の本名を知るために電話を掛けまくってくれたらしいのだが判らなかったため、1階にあったリハビリ室に入ってしまったところ、ちょうどリハビリを終えて病室に戻ろうとしていた車いすの僕と出会えたのだった。
本名なんか忘れてしまう長いつき合いです。喰ちゃん19、僕23歳が最初ですから46年。
僕を頻繁に見舞ってくれる友人には同様に古い友人が多く、23の時、フジテレビのADのバイトで知り合い、数年後、劇団四季の期待の若手になっていた藤田徳次(のち、胃潰瘍でリタイア、パソコンの学習ソフト会社社長として成功)、29歳で歌手デビューした時、シングル盤のジャケット写真を撮って貰ったのがつき合いの始まりとなった栗原潔現役カメラマン、TVの情報番組を書き始めた頃に組んで以来、27年の長いつきあいになった金田直人現役TVディレクター、同じく25年ものつきあいになった現役ディレクターの四倉光太郎君は彼がまだADだった頃から、違和感なく話をしていた聞き上手。僕が25歳で6畳1間1万円の粗末なアパートにいる頃、突然、弟子入り志願をしてきた18歳の若者尾関恩は今や小さいながらもTV制作会社の社長。喰、藤田に次ぐ44年にも及ぶ長いつきあいになっている。
そこに現役TVディレクターの大林彰君、ドキュメンタリー芸人コラアゲンはいごうまん君、『たむたむたいむ』のディレクターをしてくれていた藤井正博さんやスポニチ『キャンバスNOW』からの流れの現役ラジオ人黒瀬守泰君などが見舞いに来てくれたから、僕が一介のリハビリ老人でいられなくなったのは当然だ。
黒瀬君がどんなにお気に入りの赤のアロハを控えて大人しめの服装できてくれてもハワイアンにしか見えないし、喰ちゃんは元々地味な服なんか持ってないし、で僕の見舞客はみんな翌日のリハビリで先生とのイイ話のきっかけになるのだった。
でも、黒瀬君が赤主体でないアロハを着て来てくれた日はその気遣いに、涙が出そうになったよ。
どうやら僕だけが大雑把で僕の友達はみんな繊細な神経をしてる。

まあ、そうこうする内、とにかく我が家を掃除しなければならなくなった。
僕にはFaceBook上の友達として20代の若者が60人近くいる。
ひと声かけたら4~5人は手を挙げてくれるんじゃないかな?
安易な考えで(イヤ、実は考えに考え抜いたんだけど)FB上で「お願い」をしてみました。
手が上がらないだろう事は予測していました。
なぜなら彼らのほとんどは僕が「目下病気中」という記事に全く反応してくれてはおらず、もし、今度、なんの反応もないなら友達名簿から削除する良いチャンスだ、と思ったのですね。
無関心は何より寂しい。僕にはそういう友達関係を続けるほど長い人生が残っているわけじゃない。
僕の年齢から言ってももはや若い人たちと長いつきあいになる可能性はないけど、大事な友達になる可能性はある。
ま、そんな思いで書いた「投稿」に肝心の若者たちからは案の定、なんの反応もありませんでした。イヤ、「なんの」は失礼だな。かつての僕の生徒2人からは「今回は無理だが、次に招集がある時は行きます」と返事があった。
かぜ耕士の人生にもし、もう一度チャンスがあるなら、僕は君たち2人の役には立ちたいよ。

ま、結果は「予想通り」の一語に尽きるのだけど、応援を申し出てくれたのはいずれも5~60歳代の男女数人ずつ。正直、重いものが多い今回の大掃除では戦力としてちときつい。
そこに「1日ずれれば学生を何人か連れて行けますが…」との申し出。
ハックルベリーフィンのライブ出演者として存在はすでに知っていたバンドSSUのギタリスト菅谷さんでした。 イヤー、日にちをずらすのなんか簡単です。戦力が欲しいんですから。
戦力外ながら手を挙げてくれた人たちに1日ずれることを報告し、11月30日(土)を待ちました。

菅谷さんは大学教授で工学博士。大学院の学生君二人を連れてきてくれました。僕の住む「嵐山町菅谷」という地名にも興味を持ってくれ、早朝の嵐山渓谷を始め、この町のあちこちをカメラに収め、FB上にアップしてくれています。
学生君二人に菅谷先生と四倉君が大活躍してくれて、腕を骨折したばかりの金田君は陣頭指揮をとってくれ、「こう見えて案外力持ちです」と豪語した尾関君はやっぱり戦力外で小物の片付けに回ってくれました。
たった1人、参加してくれた女性津布久静緒さんは『たむたむたいむ』のほぼ最初からのリスナーで40年来の知り合い。勿論、顔を合わせたのは6年後くらいでしたが、ずっとイイ友達でいてくれます。
結局、僕は何をするでもなくBlakeと戯れていたのですが、彼は誰にでもすり寄って友愛の情を示し続けました。
彼にとってもみんなから「いいね!」をいっぱい貰って、ご機嫌な1日だったと思います。

大掃除と言っても1階のものを2階に移動しただけなのですが、手摺りの取り付けにはコレが欠かせない大仕事なんですね。
予定より1時間も早くカタがついて、尾関君、四倉君は帰路に。
残る6人で「うどん九兵衛屋」で「うどんしゃぶしゃぶ」の食べ放題メニューに挑戦することにしました。
学生君たちの豪快な食べっぷりが楽しくて、熟年たちもそれにつられてお代わりを繰り返し、なんだか「ハイ」な感じの夕食となりました。食事で「ハイ」になれるなんて、こんな幸せなことはないね。
常に穏やかな菅谷先生が剽軽な姿を写真に残しちゃったのが楽しい夕食の雰囲気をダイレクトに伝えてくれているかも知れません。

ちなみに菅谷先生はこの日の「投稿」で僕を「師匠」と呼び始めてしまい、「弟子2号」にして欲しいと言ってきました。
若い時から弟子をとらない主義なので世間的には「弟子1号」ということになっている尾関君も本当は「弟子」じゃないんですが、何かある際には「弟子」のように立ち回ってくれます。
で、それを見た菅谷博士は「弟子2号」の座が空いていることに気づき、弟子志願をして来ちゃったんだけど、尾関君も菅谷さんも「人の好さそうなルックスが特徴。僕はこういう人にすぐモノを頼んだりしちゃうので、きっと菅谷さんとはこれからもお付き合いが続くに違いありません。
なのでこれから菅谷さんが「師匠」と書いていたらそれを「かぜ耕士」と置き換えてみて下さい。
それにしても「社長」と「博士」が「弟子」って、なんの「師匠」?

ちなみに退院は来年2月と決まりました。
つまり、この病院にいられるギリギリの期間にまで延びてしまったわけです。
退院後は通院でのリハビリや訪問リハビリ、ジム通いなどで完治を目指します。
しっかし、↓の写真の僕、ガリッガリだね。残念ながらまだ笑顔が作れません。
表情筋、鍛えなくっちゃね。