私たちは何を拠り所として「祈る」のか?
人々の「祈り」の映像に数多く接したり、その機会の多い季節に発した問。
何人かの方から答えをいただきました。
その中からあなぐまさんのこの答えを掲載させていただきます。
かぜさん、こんばんは。
先週は台風の影響で涼しい日々が続きましたが、今週はまた熱い日々が戻ってきました。
8月も、もうすぐですから仕方ありませんね。
8月と言えば、夏休みがあり、海水浴やプール、花火大会や夏祭りも行けるので、子供の頃から楽しみにしていた月でした。 ただ、私が42歳の厄年の年、その年の8月に兄が他界し、その後は毎年、兄の命日が来るのが憂鬱でしかたありませんでした。
おまけに、自分には直接関係ありませんが、広島や長崎の原爆祈念日、終戦記念日では、新聞やテレビがこぞって犠牲者への祈りを奨励します。 そうしてお盆もやってきます。
そう考えると8月は他界した肉親や友人達、祖先や戦争の犠牲者に対して祈る月のように思えるのです。 人は何故他界した人たちのために祈るのでしょうか?
以前かぜさんがウェブ版たむたむたいむの掲示板に書かれていた事と同じかもしれませんが、お盆やお彼岸、祖先や友人の墓や仏壇の前で語りかけるように線香をたむけ、花を飾って手を合わすのには大きなわけがあるはずです。
私にはそれに対して一つの思いがあります。
これは二~三年前の話ですが、私はある夢を見ました。他界した兄と一緒に故郷の川の淵を歩く夢です。
その時の私はまだ小学生ぐらいの子供で、一緒に歩きながら道路脇に駐車する車の名前を言い当てながら 歩くのです。ただそれだけ、 「これはカローラ、」「違うよサニーだよ。」
実際に子供の頃何度か経験したかもしれない、たわいもない少年時代の一コマでした。
それだけの夢ですが、夜中に目が覚め、私は大きな啓示を受けたように感じました。懐かしい思い出に涙したのではありません。 夢ではありましたが、兄と一緒にいる時の大きな安心感、子供の頃から兄の弟として感じてきた感覚を、 たった今まで感じること出来たのです。
たぶんこれかな? 私はその時思いました。
私たちが仏壇やお墓の前で祈る瞬間は、この安心感を得たいから、同じ時間を一緒にいる感覚を、先に死んだ人や御先祖様と共有したいから、だから仏壇やお墓の前で手を合わせ、線香をたむけ、花を飾ってあたかも一緒にいるように話しかけるのでしょう。
そうじゃないかもしれません。真理は別にあるのかもしれませんが、私はそう思って手を合わせます。
8月は亡くなった肉親や友人に心を近づける事が出来る月だと思っています。