鬼は内
で知られる鬼鎮神社の豆撒きに行ってみた。
とは言っても、鬼鎮様が有名らしい、ということ自体、15年くらい前まで知らなかった。
去年は豆撒きの時間を確かめずに出掛けたので閑散とした境内を散策しただけみたいなものだった。
今年はさすがに豆撒きのその瞬間に立ち合いたいと思って出掛けたのだが、こんな身体なのでねえ、人混みの中に入るわけには行かない。
で、一番外側から眺めることにしたのだが、昔もこんなものだったかしらねえ。
人の混み具合は今日の方が多いと思うんだけど、何かねえ、祭の気分というかテンションというか、低いんだよねえ、熱くない。
昔より演出は大仰に、派手になってると思うんだけど、何だろう? 全体に静か過ぎる感じ。
どこの祭も、今ではみんなこんなもんだろうかねえ?
昔は忙しい野良仕事の合間合間、例えば春の花祭、夏の七夕、お盆、収穫後の秋祭り、お正月、節分、と年に数回の小さな息抜きとして祭は存在したのかも知れない。
楽しみの少ない農家の人々が祭の日にだけ弾けたのは当然なのかもしれないなあ。
僕は小学校最後の節分に100円貰って鬼鎮様に来たことを思い出した。
前の年の何月号だか、とにかくえらく月遅れの月刊誌『相撲』を屋台の古本売りから70円で買って、豆をいくつぶか拾って帰った。
『相撲』は貪るように熟読した。
年数回の村祭は僕にとっては『相撲』が買える数少ないチャンスだったので、歩いて小一時間かかる隣町の祭にまでよく出掛けた記憶がある。
まあ、祭を心待ちにしているような子は今はあんまりいないでしょうね。
楽しいことはそこらじゅうに転がってるものね。
思えばあの頃はラジオしかなくて、雑誌も学年誌しか買ってもらえなくて、僕の楽しみと言えば古本の屋台が出る祭の日とラジオから流れる古賀さと子のレギュラー番組と『新諸国物語』を雷雨の日以外は欠かさず聴くことくらいしかなかったんだよね。
そんなこと思い出してどうなる?みたいな昔の節分を振り返りながら、そうね、多分、演出が加わった割りには赤鬼が豆を撒いているとき、青鬼が下向いて撒くための豆を掬ってる、みたいな、赤青揃って同じ掛け声とと共に一緒に豆を撒く、というような細かい配慮の欠けた演出のせいなんだ、なんて気づいちまった。
威勢が足りないのでなんだか穏やかに祭は終わった。
まあ、豆の撒き方にまで文句つける僕も僕だが行事を単なる行事として片付けるとこんな風に行事はつまらなくなって行くのだなあ、と思った今日でした♪♪
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