9/19(土) 本日のFMさがみ『かぜ耕士のどこかでラジオが』(23:00 ~23:59)
『かぜ耕士の昭和史』は1971(昭和46年)~1972(昭和47年)
1972年は言わずと知れた「沖縄県発足の年」。
新聞やテレビ各社の取材合戦は一挙に加熱した、ということは一切ありませんでした。
まあ、日本のマスコミが「基地の島・沖縄』を報せることに情熱を注いでおれば、僕のこの年の苦しみはなく、僕はフォーク史上に燦然と名を輝かせ売れっ子作詞家の一人に数えられていたと思う。間違いなく、ね。
1971年5月か6月のある日、僕は舟木一夫さんを育てたディレクターとして高名な栗山章ディレクターから「沖縄のレコードを作ってくれ」という依頼を受けていた。
栗山さんは当時、誕生したばかりの「ワーナー・パイオニア」レコードのLP課にいた。
企画そのものが唐突だったのは「琉球新報社」からの依頼だったからだ。
「琉球新報社」の社長と「ワーナー・パイオニア」の上層部のどなたかが同級生で「沖縄返還記念レコード」を作ってもらえないか? という打診があったのだという。
どんなレコードにしたいのかの案も出ぬ内、とにかく僕がこれを担当することになった。
僕には中三での文通相手が宮古島の洲鎌ケイ子さんだったこと、20歳の年に沖縄が舞台のテレビ映画『空手風雲児』の製作助手をしていたことの二つの沖縄体験があった、
だが、そこから「沖縄」についての知識を得ることは出来なかった。
僕はこの機会に沖縄について正しい知識を得たいと思った。
第一回目の取材はすべてそこに焦点を合わせた。
驚くべき事実が識者の口から次々にこぼれてくる。
僕は圧倒された。
沖縄への関心の低さは沖縄の歴史を知らぬが故の無知からくるのだ、と思った。
じゃあ、本土の人たちはみんなで沖縄の歴史を勉強をしましょう。
基地の島となる過程で何が起き、どんな問題を残しながら日本への復帰が行われるのか?
僕はレコードをそういった視点から構成することにして、取材先をリストアップした。
音楽はその歌が歌われた場所で録音することにした。
風すさぶ草原で、断崖絶壁の上の広場で、家の中で…。
僕の頭はすぐに壊れた。
構造が単純に出来た頭だから、こういう入り組んだ悲惨な歴史を受け止めきれない。
ノイローゼになり、すでに小室等+かぜ耕士として組み合わせが発表されていた「上条恒彦+六文銭」出場の『第三回合歓ポピュラー・フェスティバル』への出品作は仕上がりませんでした。
小室さんと上条さんは「かぜ耕士は病気のため不参加」と書いたり、語ったりしてくれてますが、ノイローゼじゃ先々の仕事に響くのでありがたい気遣いでした。
ただの体験をいつか正しい経験に変えなければ、来年の沖縄体験は一過性のもので終わる。
「沖縄県発足」で体験することになるに違いない摩擦・融合を一過性で終わらせず、経験に変えて行こう。それも正しい経験に。
『沖縄を語るとき~いつか正しい経験とするために』
レコードタイトルはそう名付け、構成、取材、ナレーション かぜ耕士でクレジットされた。
これを機に僕はだんだんメディアの表側にスライドし始めた。
そしてニッポン放送の『たむたむたいむ』にたどり着く。
曲は
①『島唄』(The Boom)
②『ポートランド・タウン』(ジョーン・バエズ)
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これら専用のアプリは一度ダウンロードしておけば、いつでもラジオが聴けます。
僕の使い勝手ではTuneIn Radioがベストだったのですが、このところ調子が悪くリッスンラジオに助けられています。
ご自分のスマホと相性のいいアプリを試しておいていただけるとありがたいです。
写真は3枚組LP『沖縄を語るとき~いつか正しい経験とするために』
\3,000- ワーナーパイオニア 1972年3月25日発売