2015年12月26日土曜日

本日12/26(土)の『どこかでラジオが』(FMさがみ 23:00-23:59)


今年最後の放送だというのにいつもと変わらず『かぜ耕士の昭和史』「たむたむたいむの時代最終回」(1973ー1978)。

「お便り読みっ放し」で「茶色の少年」など。
曲は

①シクラメンのかほり(小椋佳)
②アントニオの歌(マイケル・フランクス)
③雨やどり(さだまさし)
④ダンシング・クイーン(ABBA)

写真は清須邦義&kuro-sanと。



2015年12月12日土曜日

12/12(土)放送の『どこかでラジオが』(FMさがみ 23:00~23:59)


『かぜ耕士の昭和史』は「たむたむたいむの時代」。
1973(昭和48)年~78(同53)年。
今日も番組の単行本『各駅停車の青春に』『続・各駅停車の青春に』(共に婦人生活社)からお便りを読んでます。
今回はこの「30秒発言」無しにこの番組は語れない「筋ジストロフィーの少年の詩」から始まります。
話題はどのように広がり拡散されていったのか?
当時の若者の生き方、考え方が垣間見えます。
曲は①フォーエバー・アンド・エバー(デミソ・ルソス)
②ビューティフル・サンデー(田中星児)
③悲しき慕情(カーペンターズ)
FMさがみは、パソコンならサイマルラジオでお聴きください。
スマホではリッスンラジオ、 i-コミュラジオ、TuneIn Radioなどの無料アプリがあります。
これら専用のアプリは一度ダウンロードしておけば、いつでもラジオが聴けます。
僕の使い勝手ではTuneIn Radioがベストだったのですが、このところ調子が悪くリッスンラジオに助けられています。
ご自分のスマホと相性のいいアプリを試しておいていただけるとありがたいです。
写真は
スタジオに行きましたらCDが届いていました。
FMさがみで金曜16:00~17:00に『金曜ハミング』という番組を持ってらっしゃる古屋かおりさんのデビュー20周年記念アルバムでした。
2枚同時リリースのアルバムは『Lookin Back』『Moving Forward』と言い2枚合わせると「前進のために振り返る」の意味になります。
タイトル通り、セルフカバーと新曲との2枚で意気込みの感じられる作品集です。
その『Moving Forward』の1曲目、彼女自身の詩による『さよならロンリーナイト』に「どこかでラジオが」というフレーズを使っているので、という律儀なご挨拶付きでした。
萩原桂太さん撮影のポートレイトがふんだんに使われた贅沢な歌詞付きブックレットに20周年に賭ける思いの強さが伝わってきます。
クラウン徳間ミュージックから発売中です。
CD SHOPでお手にとってみてください。




2015年11月17日火曜日

11/15(日) 小林啓子 湘南Special Live 2015 「この先の歌へ」(鎌倉欧林洞)

ケーキ屋さんの2階にあるこのホールはかつてのニュー・ミュージック系アーチストに妙に人気が高いようで僕自身、今年2度目の訪問。
啓子ちゃんのコンサートに伺うのは多分、4度目で、1回目はなんと、彼女が21歳の頃だ。
1970~71年頃か?
2度目、3度目はソレからグッと下って2003年頃だから歌声も表現力もまるで変わっていた。
結婚生活で30年ほど歌わずにいた時期があるらしい。
とにかく彼女の歌を聴くのは久しぶりなので楽しみに出かけていったのだ。
ステージはいたってシンプルでキーボードの山口玉三郎さんと啓子ちゃんだけ。
このステージにはシンプルな方が合うかもね。
①winter light
1曲目は明るいカントリー娘だったリンダ・ロンシュタットのシットリとしたナンバーを原語で。
②雨に濡れた朝
昨日のパリでの自爆事件に触れつつの選曲。
イスラム教に改宗してユスフ・イスラムとなってから各国で入国拒否に遇ってライヴも開けない旧芸名キャット・スティーブンスの大ヒットソング。
僕は今でも彼が好きだ。
ちなみに啓子ちゃんの息子さん(「BONINGEN」vocal)も同時刻にライヴ中だったそうで「すぐにホテルに戻れ」の命令でライヴは中止になったとか。
スタッフには死傷者も出たらしいという語りに遠い異国の出来事、他人事ではないことを実感。
 
③さよならcolor
5人組ファンクバンドSuper Butter Dogの2001年のヒット。2005年、竹中直人監督で同名の映画も生まれた。
SBDのヴォーカル永積タカシはSBD解散後、ソロユニット「ハナレグミ」として活躍。こちらの名で知る人も多いのか、太田裕美ちゃんのコンサートでも「ハナレグミ」のヒットとして歌われた。
④ボクサー
サイモン&ガーファンクルのヒット曲のひとつ。
「ライ・ラ・ライ・ララララ・ライ・ラ・ライ」(嘘で嘘で嘘で嘘で)のリフレインに切なさややるせなさが籠められて良い歌唱。
ブレッド&バターの岩沢幸矢さんが本日のゲスト。
小室等さんと並ぶ東の長老。
「湘南サウンド」などと言われたがデビュー曲は何故か『傷だらけの軽井沢』。
最初は歌謡曲だと思っていたので『走れ!歌謡曲』で時々、選曲した。次の『マリエ』でフォークグループだったのか、と認識した覚えがある。
⑤愛したい 信じたい
岩谷時子さん作詞のメッセージソングを二人で。
 
⑥風
ブレッド&バターの曲の中ではこれが好き、と啓子ちゃん。
⑦虹の彼方に
二人で『オズの魔法使い』から。
最近ではゲイの歌として再評価されている息の長いスタンダード・ナンバー。
微笑ましいデュエットソングになった。
啓子ちゃんの休憩。幸矢さんのソロで。
⑧江の電の歌
正式タイトルは知らない。
何度か繰り返される「welcome back home」に夕景色の中を走る江の電の感じが上手く捉えられている。
⑨アロハ・カガヒアカ
幸矢さんはハワイが好きらしい。
kuro-sanもこの歌、きっと好きになる。
再び小林啓子、休憩を終えて。
⑩比叡おろし
僕がこの歌を知ったのは小室等さんのコンサートから。
これを歌うとその日の自分の調子が判るから、と70年当時の小室さんは大抵ライヴでこれを歌っていて、1枚目のソロ・アルバムにも入れている。
啓子ちゃんはこれを70年にシングル発売していてB面がNHK『ステージ101』からの『恋人中心世界』。
『101』組では小原初美ちゃんもレコーディングしていて発売は三人ともKING Recordsから。
この歌は前半が「~したそうな」という伝聞口調の客観描写、サビから「ウチは比叡おろしですねん」と一人称になる面白い構成。
啓子ちゃんはサビからを大仰なほどの表現で「比叡おろし」の冷たさを際立たせた。
演劇的で楽しい試みだと思った。
⑪私の孤独
仏語でジョルジュ・ムスタキの『マ・ソリチュード』を。
仏語の先生からそろそろ披露しても良いと言われたそうで、なるほど、らしい(失礼)発音。
ムスタキ。懐かしかった。
⑫スライダーを覚えて
世界的デザイナーのヨージ・ヤマモトが歌手だったとは知らなんだ。
啓子ちゃんが出逢った時、まだヨージは小さなブティックを持ったばかり。
彼から貰ったレコードの中でこの曲が気に入り、いつも口ずさんでいたら息子さんがこの歌を子守唄がわりに覚えてしまったらしい。
今では腰まで伸ばした髪を振り乱して歌う息子さんは「この歌が僕の原点」と言っているそうな。
野球のテクをひとつずつ覚えて行く少年の姿は普遍的で説得力がある。
啓子ちゃんはこの春発売したアルバムでBONINGEN君のアレンジでこれをカバーした。
さぞかし感無量だったことだろう。
⑬嘲笑
北野武作詞、玉置浩司作曲。
不思議にもセンチメンタルになれる佳曲。
これも『この先の歌へ』に入っている。
つまり新アルバムはなかなか興味深い選曲なんだ。
⑭サン・フランシスコ・ベイ・ブルース
ラストは英語で。
アンコール曲代わりのオーラスは、元々、スティービー・ワンダーがブレッド&バターに書き下ろしたらしい『I Just Called To Say I Love You』を客も交えて大合唱。
⑮I Just Called To Say I Love You
しかし、日本語タイトル『心の愛』で知られるこの歌はブレッド&バターで発売されることはなかった。
スティービー・ワンダー、人に上げるには良い歌過ぎて惜しくなったらしく、返してくれと言い出したらしい。
結局、この歌はスティービー自身の歌でレコーディングされ、映画『ウーマン・イン・レッド』の主題歌として大ヒット。
1984年にビルボード誌No.1を記録し、アカデミー賞では歌曲賞を獲得した。
幸矢さんは多くを語らなかったが実際にはレコーディングも済ませ発売間近だったらしい。
日本語詞は呉田軽穂ことユーミン。
あとから別の作品をくれたらしいが、そりゃちょっと約束が違うよスティービー、って話じゃないかしらね。
ライヴはこの曲をもって有無を言わせず終了。
ウン、ダラダラとアンコールに応えるより、僕もこの方が好きだな。
全体を通して、良い仕上がりのライヴじゃなかったでしょうか。
啓子ちゃんの語りは後半に歌う歌の前振りを2~3曲目でしちゃったり、おっちょこちょい全開なんだけど、玉三郎さんが勘良く交ぜっかえすので大きな失敗にならずに済んでいる。
玉三郎さんの笑いに変換する手際が絶妙で二人の息が合っているのが良くわかる。
しかも啓子ちゃんの話が思いの外、含蓄に富んでいてフムフムとうなずける要素が多いのだ。
息子とヨージの話はちょっと泣きそうになっちゃったな。
声は若い時よりずっと太く深くなっていて、高音は以前より伸びが良い。
日頃の訓練を欠かしてないのは何故か『101』の人達に共通していて、年齢なりの実りを見せているのは立派だと思う。
なごやかな空気に包まれた質の良いライヴというのが今回の印象で、心地よい気分で鎌倉をあとにした僕でした。

写真は
①小林啓子 新アルバム『生きるものの歌 この先の歌へ』
②シング・アウトのドラマー、ドンちゃんと啓子ちゃん
③このひどい写真はドンちゃんの撮影






2015年11月14日土曜日

11/3(火) 神奈川芸術劇場『21世紀の上を向いて歩こう

今日は横浜中華街から間近い「神奈川芸術劇場」に来ている。
『21世紀の上を向いて歩こう』というコンサートでLittle Glee Monster という上手いと評判の少女6人組が『涙をこえて』を歌ってくれる。
このコンサートのために詞の一部を書き換えタイトルも『涙をこえて~Re-born』となった。
大友良英スペシャルバンド、二階堂和美、福原美穂さんなど4組が中村八大さんの作品集を演る。
この頃、八大さんの作品を見直す機運が高まっているのか、この10日で2回聞くことになった。
『夢で逢いましょう』で発表した以外の楽曲も沢山ある八大さん。
プロデューサーは『こんにちは赤ちゃん』の赤ちゃんその人である中村力丸さんである。
アッと驚く選曲を期待しているが、さて…。

大友さんはご存じ『あまちゃん』のテーマ音楽で知られた作曲家だが元はフリージャズの作曲家、ギタリストとして知る人ぞ知るアーチストだ。
東南アジア各国で映画音楽家としても知られていたらしい。
山下毅雄さんや八大さん、そしていずみたくさんやクレイジーキャッツの音楽も好きだったとwikipediaにあるのでテレビっ子だったのかもしれない。
オープニングは本領発揮のフリージャズで
①21世紀の「上を向いて歩こう」(大友良英スペシャルバンド)
先行きがどうなるのか全く読めないオープニング。
なんかウキウキしてくる。
しかし、2曲目からは永六輔作詞・中村八大作曲の『今月の歌』が大きな売り物だったバラエティ番組『夢であいましょう』から
②夢で逢いましょう(二階堂和美)
③あの娘の名前は何てんかな(二階堂和美)
が順当に選曲されている。
「あの娘の名前は…」は九ちゃんによるコミックソングで『夢あい』の出演者、中島弘子、坂本スミ子、黒柳徹子や、渡辺プロの美佐社長、九ちゃん所属のマナセプロの社長や、田代みどり、森山加代子などとにかく当時の少年少女たちがみんな知ってる名前をいろいろ呼びかけるが返事がない。なんと「あの娘」はマネキンだったのサ、という落ちがつくナンセンスソングなんだけど、ちゃんと作品になっているところにこの歌が愛された理由がある。
しかし、丸山明宏さんが歌ったという次の歌は記憶から完全に欠け落ちていた。
④誰に(二階堂和美)
曲は『Take 5』にクリソツ。
ちゃんとスタジオ写真にも丸山さんが映ってるから間違いないのだが、この歌に全く記憶がない。
面白かった。
面白いと言えばMCは大友さんがつとめているのだが、これが抜群の上手さ。
流暢なのでなく、放っておくと止めどなく続いてしまいそうな、と言って饒舌とも違う、笑いの勘所をしっかり抑えた奔放さなのでほぼ満席の客席からは笑い声と共に拍手も起きる。
思わず笑っちゃう、どこか愛らしいエピソードが混じったりする。
さて、次に登場したのは平均年齢16歳の「最強歌少女」たち、Little Glee Monster。
まずは挨拶がわりの1曲がなんとアカペラによる
⑤yesterday(Little Glee Monster)
と来たもんだ!
イヤー、驚いた。ホントに上手いんだもの。
⑥君が好き(Little Glee Monster)
⑦涙をこえて(Little Glee Monster)
「学校の音楽コンクールで2年前に歌った」とか言いながら歌ってくれたので嬉しくなっちゃった。
そして、ラストもアカペラで
⑧遠くへ行きたい(Little Glee Monster)
ま、見事なハーモニーです。
嫌みのない歌唱ですんなり心に届いてきました。
3人目のシンガー、福原美穂さんはなんとレゲエのアレンジで、北島三郎さんの名曲
⑨帰ろかな(福原美穂)
を。
続いては江利チエミさんの
⑩私だけのあなた(福原美穂)
を。
実はこの歌もまったく耳馴染みがないが、なんとも切ない恋歌。福原さんの歌唱が冴える。
そして、ついに
⑪上を向いて歩こう(福原美穂)
なのだが、オノヨーコの英詞で披露。
試みは面白いのだけど聴き手はちょっと落ち着かなかったと思う。
オリジナルは水原弘のB面ソングだがちあきなおみのカバーヴァージョンが知られる
⑫黄昏のビギン(二階堂和美)
は、どうも2コーラス目を八大さんが作詞したらしい。
映画の中で使うため元は1コーラスしかなかったので、レコード用に八大さんがどうも書き足してしまったらしい。
道理で永さんは「作曲は天才だけど作詞家としては三流」なんて言ったりする。
ウン、僕にも八大さんが詞を書き足した作品があるんだけど、それがテレビやラジオで流れている時、上を向いて歩けなかった。
次は
⑬笑点のテーマ(大友良英スペシャルバンド+二階堂和美)
で二階堂さんが「パフッ」を担当。見事に決めました。
そして、これだけが青島幸男作詞となる
⑭明日があるさ(全員)
とにかく明るくなれるのが良いね♪
オーラスは八大さんの作詞、作曲、歌、という異色作を大友さんのソロ、出演者全員のコーラスで
⑮太陽と土と水を(大友良英)
合歓ポピュラーフェスティバルで地元の子供たちを従えた八大さんのこの作品は商業的意図をまったく排除したシンプルで美しい歌だった。
フェスティバルでは特別賞を受賞したのだったと記憶する。
レコードは持っているので一度番組で掛けてみたい。
今でもこの歌の持つメッセージ性とシンプルな美しさの価値は変わっていないと思うし、むしろ今の方が素直に人の心に届くかもしれない。
さすが八大さんのファンを自認する大友さん、思わぬ佳曲を選曲したものだ。
感心した。
そしてアンコールは、初めてオリジナル曲に近いアレンジで
⑯上を向いて歩こう(アンコール/全員)
ホッとしてThe End。
まことに心地よいコンサートでした。
写真はポスターと出演者達。
真ん中左が福原さん、右が二階堂さん、それを囲んでLittle glee Monster。



11/4(水) 月蝕歌劇団「新撰組 in 1944-ナチス少年合唱団-」(ザムザ阿佐ヶ谷)


美少女演劇(暗黒版宝塚の異名もある)で知られる月蝕歌劇団を見た。
主宰者で作・演出の高取英さんとは1980年頃からの知り合いなのだがその作品を見るのは初めてなんである。
高取さんの芝居に安達明の『女学生』という歌を用意した、ということだけの付き合いなのに恩着せがましくFB上で友達関係になったというのが今年のこと。
月蝕歌劇団は今年結成30年で今月末にはWOWOWでドキュメントが放送になるのでその前にちゃんと見とかなきゃ、と重い腰をあげたのだ。
1985年旗揚げだから、考えてみると高取さんとは劇団結成より前の付き合いになる。
僕が音源を用意できたのは少なくともキー局のパーソナリティ時代しかあり得ないので80年か81年、演劇団での公演『月蝕歌劇団』か次の『聖ミカエラ学園漂流記』辺りのことだ。
演劇団公演『月夜とオルガン』(作・北村想)の宣伝担当をしていた頃かも知れない。
『新撰組 in 1944』については演劇ジャーナリストの山田勝仁さんが書いてらして、それがとても素敵な劇評にもなっているのでお読みいただきたい。
奇想天外な新撰組とナチスとの出会いが「思いこそが現実を変える」「理想を語らねば世界は滅びる」ことを示唆していて興味深い。
ワクワクハラハラしながらその骨太な劇世界に飲み込まれて行く。
感動的で心地よい体験だ。
舞台最後は字幕で処理される。
土方は薬売りの行商に戻るのだが、歴史上では明治時代を牽引した人物たちが次々に暗殺される。
おそらくは土方の仕事だ。
そして、土方は五稜郭で弊れなかった。
彼は内戦に勝利し、共和国構想を実現する。
思いの深さが歴史を超えて行く。
ロマンチシズム溢れる感動的なラストだ。
出演者の大半は美しい女優たちだが、美しい人を見ているのはやっぱり気持ちいいな。
新撰組を女性が演じるわけだが思いの外、発声は気にならない。
宝塚的発声だと疲れるな、と余計な心配をしていたが杞憂で、土方歳三役の倉敷あみ、ゲッペルス役の白川沙夜にクラッときた。
つまり、主要キャストたちはそんな風にカッコいい。
新大久保鷹さんをはじめとする男性キャストも要所をビシッと決めてイカしているのだが、吉田松陰の怨霊を好演する俳優だけが小汚ない。
実はこれが漫画家の田村信さんで、この劇団が大好きで近年の公演にはほとんど客演しているらしい。
「おれ、田村だからあだ名がたむたむでかぜさんと同じなんだよ」
と挨拶してくれた。番組をいつも聞いててくれてたらしい。
これも長生きの得みたいなものですね。
高取さんが美女揃いの出演者たちに「この人が伝説のディスクジョッキー」と紹介してくれたが彼女たちの反応は「ディスクジョッキーって何? 仕事?」
思わず吹いた。
月蝕歌劇団の公演には「詩劇ライヴ」が必ず付随しているらしい。
懐かしのメロディ数曲とこれまでの公演で歌われた劇中歌なのか、馴染みはないが刺激的な歌が披露される。
音楽はJ.A.シーザー作品なのか曲調にある流れが聞き取れ、いつの間にか気持ち良くなる。
既にCDデビューしている人もいるので水準は高い。
前述の山田勝仁さんも今日はライヴだけを聞きにこられて久しぶりの再会。
しかし、僕はこのところ絶好調だったものだから少し自分を過信していた。
ちょっと段差の高い階段の2段目でバランスを崩して落っこちて、したたか腰を打った。
運良く後ろで山田さんが支えてくれたので助かったが、家に戻ったら腰と首が痛く、明日のリハビリ教室に行けるかどうか微妙なところ。
油断は禁物だね。
写真は田村さん、高取さん、僕。
集合写真には美女軍団+高取さん、山田さんも。
山田さんはフットワーク軽く紀伊国屋劇場へ。
僕は高取さんと喫茶店で長話してしまいました。
高取さん、またきっとうかがいます♪
ちなみにWOWOWは「ノンフィクションW」枠で
11/21(土) 午後1:00~/ 11/23(月・祝) 深夜2:10~ の2回放送。多分、12月にもあると思います。
タイトルは
『暗黒のアイドル、寺山修司の彼方へ。「月蝕歌劇団」30年の挑戦』




2015年10月31日土曜日

10/31(土) 本日の「どこかでラジオが」

「かぜ耕士の昭和史」は1970年代総まとめです。
70年代はジミヘン・ジャニス・三島の死。
日本赤軍に絡むハイ・ジャック事件、超法規的措置、
国際婦人年、ウーマン・リブ、不登校、いじめ、校内暴力、家庭内暴力などなどキー・ワードがいっぱい。
そんな時代に僕のパーソナリティ生活は始まり、やがて人生最大のピークを迎え、まもなく終焉に向かいます。
そんなことを今回と次回とで。
結局、20世紀の終わり頃まで、このスタイルで行くことになりました。
困るのは80年代~90年代はCD買ってないんだよね。ワム!とマイケルとイカ天レコードしかない。

本日かかる曲は
①ミー・アンド・ボビー・マギー (ジャニス・ジョプリン)
②傷ついた小鳥 (六文銭)
③アルカディア (小室等)

FMさがみは、パソコンならサイマルラジオでお聴きください。
スマホではリッスンラジオ、 i-コミュラジオ、TuneIn Radioなどの無料アプリがあります。
これら専用のアプリは一度ダウンロードしておけば、いつでもラジオが聴けます。
僕の使い勝手ではTuneIn Radioがベストだったのですが、このところ調子が悪くリッスンラジオに助けられています。
ご自分のスマホと相性のいいアプリを試しておいていただけるとありがたいです。

先週、録音の時に撮った写真が全部削除されちゃいまして、使い回しです。
kuro-sanと一緒。


2015年10月30日金曜日

恐るべし「虎姫一座」

10/25(日)、浅草にレヴューを見に行った。
そのタイトルを「これが浅草レヴュー『虎姫一座』だ! 60年代を突っ走れ!」という。
イヤー、驚いた! 実に質の高いエンターテインメントに仕上がっている。端的に表現すると
「来た!」「観た!」「震えた!」
僕がこのshowの存在を知ったのは今年6月の中頃、浅草六区の「ゆめまち劇場」にWAHAHA本舗の主宰者喰始演出の芝居を見に行った時だ。
終演後、「僕は今日、浅草に来てる」と、劇場内の写真をアップしたら、「その写真に後ろ姿で写り混んじゃったのは僕です」とコメントしてくれた人がいた。その方を佐野さんという。
「なんだ、声かけてくれれば良かったのに」と返信したら、
「僕、今はもうそこからすぐの劇場にいます。『虎姫一座』のshowなんですが、最後にかぜさんの歌が歌われてます。いつか見てやってください。とってもいいグループです」
「虎姫一座? なんだそりゃ」というのが第一印象だったが、僕はそれから間もなく、思いもよらぬ場所で、彼らの存在を再認識することになった。
なんと、それは、新しいリハビリに取り組むために移った高坂のリハビリ施設でのことだ。
完全に失われてしまった筋力を取り戻すため、マシンを使うことになったのだ。
リハビリには十分な休憩と水分補給が必要なので必ず途中でお茶の時間がある。
その日、僕が親しくさせてもらっている三枝さんがこんなことを言い始めた。
「この間さあ、浅草でいいものを観たんだよ」
「良いものって?」
僕が相づちを打つ。
僕はこの病気になってから、食堂とかお茶の時間に、誰かが話し始めた話題をみんなの話題に広げる癖がついた。そうしないと高齢者たちはただ、黙ったままになってしまう。
なので僕はいつの間にか「班長サン」という認知をされてしまうらしく、お婆ちゃんから「オシッコ行きたいんだけど」とか「コーヒーの袋が破けないんだけど」とか雑用申し受け係みたいになっている。
「あの~、山田さんはまだ見てねえかい。若い子たちが古い歌を歌って踊るンだけどよ」
「WAHAHA本舗?」
「ウウン、そんな有名な名前じゃなくて、まだ無名なんだけどこれが馬鹿に良いんだい」人の話はいい加減に聞いておくものじゃないね。「浅草」「無名」で僕は佐野さんの教えてくれたグループ名に行き着いたのだ。
「もしかして、虎姫一座って言います?」
「ああ、そ、それだよ、虎姫一座。エ、山田さん、何で知ってるん? もう有名なん?」
「ええ、ネットではだいぶ評判ですねえ」
「ああ、そうなんかい。それじゃあ、テレビにも出てくれるかねえ。俺ァ、楽しみに待ってンだよ」
もう、70代後半の三枝さんをこんなに喜ばせた「虎姫一座」ってどんな演し物をやってる、どんなグループなんだろう?
僕の中では期待ばかりが大きく膨らんだ。
出会いというのはそれが必然ならば本人の知らぬところで着々と準備されて行くものなのかもしれない。
なんと、わずか1ヶ月の間に三度「虎姫一座」の名を聞くことになった。
7/11(土)、僕は久しぶりに人前に立つことになった。
「EPO歌手生活35周年記念コンサート」
面映ゆいことだがゲストである。EPOちゃんの最初の歌声は僕の番組のレコードに収まっている。
ただ、その縁だけで僕とEPOちゃんは長~い友達だった。
このコンサートに出て以来、僕のFB友達は数十人増となるのだが、その中に「虎姫一座」応援団長を自認する田村さんがいた。
田村さんは「タクシーを手配します。是非、見て欲しいんです」とメッセージを下さった。
なんと、田村さんは「虎姫一座」と出会って、家族ごと浅草に転居してしまった、という究極の追っかけなのだった。
何で「虎姫一座」というグループは、こんなにも大人たちを夢中にさせているんだろう。
ともかく見に行かねば。
そう思っている内に、週2日のリハビリに歯の治療、隔週のラジオ、と病人としてはそこそこ忙しい月日が流れ、気づけば10月も後半。いくら最初からロングランと謳っていてもこのままじゃ見ず終いになってしまう。
僕は覚悟を決めた。
浅草六区の全盛時を僕は知っている。
昭和32年4月~38年3月までの6年間を浅草からは川向こうとなる墨田区は向島で過ごした。
だから僕の知っている浅草六区は、レビュー全盛時の六区でなく映画全盛時の昭和30年代である。
特にゴールデンウィークと正月休みの映画街はほぼ電車のラッシュ時並み。歩くのが困難なほどの賑わいだった。
勿論、浅草の衰退も見ている。
特にテレビドキュメントの構成を始めてからは、三社祭、合羽橋道具街、行商等のテーマで歩いたし、一番古い業界友達の喰ちゃんがWAHAHAのイベントで浅草花やしきを使うようになってからは頻繁に訪れるようになった。
しかし、4,5年前までの六区は往時を知る身にはあまりに切ない衰退ぶりだったというしかない。
あんな興業街のどんな小屋で、一体、どんなshowを見せているというのだ?
僕はある種の怖いもの見たさの感情を抱きつつ、雑貨屋「ドン・キホーテ」ビルの「アミューズカフェシアター」のある階に降り立った。
喰ちゃん演出の際のゆめまちシアターでも感じたが劇場は小綺麗で洒落ている。
六区という土地柄にはどこかそぐわない感じもするのだが、恐らくは僕が昔の六区を知っているせいで、小綺麗さを受け入れられずにいるようにも思えた。
現在、浅草六区に店を構えるには劇場施設を併設すること、というのが決まりらしく、今後、こうした劇場はどんどん増える。
それに伴い、小綺麗で小洒落た感覚が新しい浅草のイメージになっていくのだろうから、古い知識は必要ない、多分ね。
劇場受付で白と黒の制服の少女が「虎姫一座の誰それです。今日は受付の担当です」というような挨拶をしてくれた。
清潔感が印象的だった。
劇場内はまさしくカフェシアターのしつらえで客席はおよそ70人を収容。客席中央には厨房が張り出していて、そこでは調理人とウエイター、ウエイトレスたちが白と黒のスタイリッシュな制服姿で立ち働いており、ウエイターの少女はお茶を運んできてくれた折りに「虎姫一座の誰それです」ととても良い笑顔で挨拶してくれる。
そう、彼ら彼女らはshowの開演と同時に早着替えで演者に変身するのだった。
午後1時。
浅草レヴュー「虎姫一座」の『60年代を突っ走れ!』は『クール』から始まった。
ご存知『ウエストサイド物語』の名曲で、この映画で人生の階段を幸せに踏み外した僕は、早くも期待に胸がときめいた。
ステージの壁面にナビゲーターの小倉久寛さんが現れて『ウエストサイド物語』が1961年上映であること。日本にもミュージカル熱が高まり、ハナ肇とクレイジー・キャッツ、『シャボン玉ホリデー』『ザ・ヒットパレード』『夢で逢いましょう』といった後世に名を残す名番組が生まれたことなどを手際よく紹介する。
惜しむらくは『ウエストサイド物語』を『ウエストサイド・ストーリー』と読んでいること。のちに、誰も文句を言わなくなったが、上映時は『ウエストサイド・モノガタリ』というのが正式タイトルだった。
余談だがタイトル案で最有力だったのは『ニューヨーク愚連隊』。
歴史に残るヒット作にはならなかったかもね。

さあ、『ウエストサイド物語』の『クール』で始まった虎姫一座のステージは小倉久寛さんのナビゲートで
青島幸男作詞、萩原哲晶作曲で知られる
「クレイジー・キャッツ・ヒットメドレー」へ。
●スーダラ節
●ホンダラ行進曲
●ハイそれまでよ
他、お馴染みクレイジーのヒットナンバーが続く。
しかし、虎姫一座、植木等さんが奮闘した「無責任時代」なんか知るよしもないはず。
ところが彼ら、その世界を必死の取り組みで体現して見せる。
コント的所作に硬さは残るものの客席自体もまだ十分に暖まっていないのでウォーミングアップとしてはこれで良いのじゃないかな。
最初から植木さんを達者に演っちゃったら悪達者な若者たちにしか見えない。固さに初々しさを感じさせるこの出だしにむしろ程の良さがある。
しかし、次の『ザ・ヒットパレード』の景で虎姫一座は彼らの魅力を早くも全開させる。
●恋の片道切符
●そよ風に乗って
●スタンド・バイ・ミー
●夢見るシャンソン人形
●カレンダー・ガール
ああ、曲名を全部書いてしまいたいと思うほどキュートなナンバーが続く。
特にマジョリー・ノエルの『そよ風に乗って』。これ、何故かベストヒット盤に収録されることが少なく、掛けようと思うと局のレコード室から誰かが借り出し中。一枚しかないレコードをめぐって局中がカリカリした人気曲なのよね。
溌剌と歌い踊る清涼感に選曲の良さが加味されてもはや涙モノのステージが展開してる。
60年代どストライクの僕にはホントにたまらん♪
ステージはここで突然、「和モダン」の世界に突入する。
甚句を歌い始める娘さん。
心地よいコブシに男二人が打ち鳴らす和太鼓が加わる。
ああ、そうだそうだ、男の子もいたんだよな。
これまで彼らも女の子たちと歌い踊っていて、なんの違和感も持たせていなかったのだが、この景で突如、その存在を顕かにする。
彼ら二人の存在がこの一座にピリッと背筋が伸びている感じを与えていたことがわかる。
聞けば彼らは「鼓童」の出身。
上手いはずだ。
甚句の女の子は民謡出身で、何故か民謡の出身者はどのジャンルの歌にも死角がない。たとえば三橋美智也、細川たかし、金沢明子、松村和子…。
そして、気づくのだが、一座の多くの少女たちは一人一人が得意ジャンルを持っているようだ。
アクロバット、新体操、バレエ、ヒップホップ系ストリート・ダンス…。
彼ら彼女らの特技が随所に活かされ、巷に氾濫する数多の少女グループと一線を画していることが判ってくる。
次に小倉久寛さんは『日曜洋画劇場』へと誘う。
淀川長治さんが大人気だった60年代。
そう、淀川さんが有名にした最初のスターは『ララミー牧場』のジェスことロバート・フラーだった。
大好きだった。写真が出てきただけで泣きそうだ。
小倉さんは60年代の洋画ヒットはアメリカよりヨーロッパ作品が多かったことを伝え、ステージは「映画音楽」へ。
●007 ロシアより愛を込めて
●日曜はダメよ
●太陽はひとりぼっち
●栄光への脱出
「007」2作目は『危機一発』のタイトルで封切られたが、苦心のタイトルも『危機一髪』の誤植じゃねえのか、と言われ、主題歌タイトルとして超有名だった『ロシアより愛を込めて』に変わった。元々、原題はそれなのだから工夫しただけ損した結果になったけど、僕は『危機一発』のシャレ方も捨てがたいと思っている。
凛々しく、愛らしく、アンニュイに、気高く歌われた主題歌集もアッと言う間。
『刑事』から「死ぬほど愛して」『太陽がいっぱい』の主題曲に無理やり詞をハメ込んだ木田ヨシコver.『ブーベの恋人』の主題歌(多分これも日本だけ)なんかに入れ換えても面白そう、などと、彼らの実力の程が判ってきたので見る側にも余裕が出て来た。
そして、このステージの白眉とも言える60年代を代表する音楽バラエティ番組『シャボン玉ホリデー』vs.『夢で逢いましょう』。
それは詰まるところ、宮川泰 vs. 中村八大という昭和を代表する人気作曲家対決でもある。
●「夢で逢いましょう」のテーマソング
●「シャボン玉ホリデー」のテーマソング
●ウエディングドレス
●娘よ
●帰ろかな
●あの娘の名前は何てんかな? 
●遠くへ行きたい
●幼なじみ
などなど永六輔作詞 中村八大作曲で知られる『夢逢い』の名曲オンパレード。
『上を向いて歩こう』『こんにちは赤ちゃん』を生んだことでも知られている。
『あの娘の名前は…』は九ちゃんが呼び掛ける名前に、当時のプロダクション関係者からロカビリー歌手、仲間のポップス歌手たちが並ぶお遊びソング。
お遊びなのにちゃんと作品として成立してるのが味噌。
一座はこれらを楽しそうに歌いきった。
益田喜頓さんの『娘よ』を年齢の違和感ナシに聞かせたのも立派。
ところで、永さんは『スキヤキ』とタイトルされた楽曲からは一切の印税受け取りを拒否してらっしゃる。出来るだけ『上を向いて歩こう』と言ってあげてね。
対する宮川泰作品は『シャボン玉ホリデー』の主役である、世界に誇れる日本のデュオ、ザ・ピーナッツの代表作でもある。
●情熱の花(これは外国局だけど)
●恋のフーガ
●恋のバカンス
●ローマの雨
『ローマの雨』はピーナッツの美しいハーモニーを最大限に再現して聞かせた曲で、一番きれいにハモる部分では一座の声がまさしくピーナッツに重なる。
感心した。
ピーナッツは真似て真似られるコーラスではないが、美しいコーラスを追い求めるとピーナッツになってしまう、ということなんだと思う。
現代の歌は言葉数が多すぎるのと説明のしすぎで歌い手の表現力に頼る部分が少ないが、昭和の歌は歌手の力と聞き手の想像力に委ねる部分をわざわざ残している。
言葉に頼りすぎると聞き手を楽にしすぎるので『ローマの雨』の美しい表現もハーモニーも要らないものになってしまう。
虎姫一座はその表現力を手にする機会を得た幸運なグループだ。
これからもっともっと成長するはずだ。
さて、その虎姫一座が最後に歌ってくれるのがかぜ耕士作詞、中村八大作曲の『涙をこえて』だ。
贔屓の引き倒しになりそうで怖いのだが、これが絶品なのだな。
1970年に始まったNHK-TV『ステージ101』の第1号オリジナルソングだが発表は1969年11月で日本のソフトロックのハシリ、とも形容されている。
オリジナル・シンガーはシング・アウトという7人組だが『ステージ101』の出演者全員45人(総称「ヤング101」)が有名にしてくれた。
45人の番組第1期メンバーは何人かを除いて既に期待の新人としてレコードデビューしていたが、何故かセールスに結び付かなかった。
音楽監督の八大さんと演出の末盛憲彦さんは不運だが上手さ折り紙つきの新人を次々にオーデションして第一期メンバーを決めた。
彼らの歌う『涙をこえて』に実在感が伴ったのにはそんな理由もある、と僕は思っている。

では、虎姫一座は?
イヤー、はっきり言って驚いたのだ。
ギランバレー症候群という訳のわからない病気でリハビリ中の(というか、リハビリ以外に治す術がない、という病気だ。リハビリを諦めたら終わりなのだ)の僕が、なんと、自分の歌で励まされるとは、ネ。
こんな幸せが僕の人生にまだ残されていたとは!
だから、僕は彼らの求めに応じて立ち上がり、一座のみんなに、そしてお客さんたちに頭を下げた。

彼らは何故、『涙をこえて』をあんなに上手く歌ってくれたんだろう。
パンフを読んで解った。
彼らは若いけど結構苦労人が多いのだ。
「ヤング101」との共通点があったことになる。歌にとっては幸いなことに上手く歌ってくれる素地を虎姫一座の皆さんが持っていたことになる。
さらに、彼らが大人を捉えているのにも理由があった。
虎姫一座は元「アミューズ」社長(現会長)の大里洋吉さんとプロデューサーの森弘明さんが手塩にかけて育てたグループだ。
お二人とも『夢で逢いましょう』の演出家末盛憲彦さんに憧れてこの世界に入った。
僕は同じ番組の書き手永六輔さんに憧れて永さんが集めた創作集団に入った。
大里さんは社長の座を離れた時、世界のエンターテインメントに触れる旅を敢行した。
多くの国でシニア世代はエンターテインメントを享受していた。
しかるに日本は?
日本のシニア世代に向けた質の高いエンターテインメントを提供できないものか?
そんな構想の中で集められ、育てられたのが虎姫一座だった。
彼らは既に5年前、2010年7月に結成され『復活!昭和歌謡 エノケン・笠置ヒットソング・レヴュー』を上演。
1年毎に新作を上演して1年前浅草に定着。
昨日今日出て来た連中ではなかった。
それにしては、彼らの持っている清潔感、舞台に漂う清涼感は何?
僕は震えた。心底嬉しかった。
作詞家である自分を誇らしく思った。
自分の歌に励まされるなんて間抜けの極みだけれど、こんな経験した作詞家もそんなにはいないだろうね♪
なんかとても満たされた気分で、僕は銀座TACTに向かった。
僕の番組の人気アマチュアグループとして活躍したハックルベリー・フィンのマーク松村くんが亡くなって1年。
相棒の丈二くんによる追悼コンサートとも言えたが、これはまた新生ハックルベリー・フィンの出立コンサートでもある。
何人もの懐かしい顔に出会って、こっちでも励まされた一日でした。
ちなみに僕は今日リハビリで三枝さんにお会いしたのだけど虎姫一座を僕も見て来たよ、としか話しませんでした。もちろん、それだけでしばらく話題は持ったんだけど、僕の歌を歌ってくれてる、って言っちゃうとリハビリ所で余計な興味を持たれるものね。
単なる芸能通の山田さんでいいや。

写真は「虎姫一座」の看板と銀座TACTのじょうじさんコンサートに集まったタムタム仲間。



2015年10月17日土曜日

10/17(土) 本日の『どこかでラジオが』(FMさがみ 23:00~23:59)



『かぜ耕士の昭和史』は1973年(昭和48年)に入りました。
3/31(土)でNHK『若いこだま』を降板し、さて、旅に出るか、とウダウダしていた4/1(日)の午後、一本の電話。
『明日、新番組の会議に来られる?」
ニッポン放送のプロデューサーからでした。
その日はエイプリル・フールです。しかも日曜日です。冗談だと思いました。
しかし、仕事が昨日で全くなくなっちゃったのだから受けざるを得ないでしよう。
ボクは当時、6月スタートの『オールナイト・ニッポン』4時間バージョンのパーソナリティ・オーディションに残っていました。
前年、ニッポン放送は聴取率が落ち込み、新機軸を打ち出す必要に迫られていました。
『オールナイト・ニッポン』の内容一新策の中で、4時間を一人で持たせるためにはタレントでは不安。構成作家で喋れる奴を起用する方が安心なんじゃないか、という案が出て、出入りの構成作家ばかりか、プロデューサー、ディレクターに縁のある人たちが次々にオーディションを受けていました。
ボクの周りの大半の作家達も受けていました。
他の連中がどんな試験をされたのか知りませんがボクは「『ウッドストック』におけるジョーン・バエズの不当な評価」「美空ひばり」「花の持つ意味」を3分ずつ、およそ10分喋りました。
そしてそのまま、何となく残っているらしい、という噂を聞いたきり、放ったらかされていました。
翌日、会議に出ると新番組は4/17(火)0:10スタートの月~金20分の帯番組で中身もタイトルも決まっていませんでした。
とにかく、駆け足で用意して、その日に間に合わせるべく何度かの会議が開かれ、番組は始まってしまいました。
『たむたむたいむ』は前半を「30秒発言」、後半をかぜ耕士のひとり語りと「東京情報」で構成し、30秒発言には何本かに一回感想を挟む、という緊張度の高いもの、毎日のエッセイは結構きつく、まだ発刊されたかされないかの『ぴあ』ラジオ版もかなりかったるい企画でした。
数字も中身も冴えないばかりか月8万の出演料は所得税を引かれると72,000円。
とても東京では暮らせなくなり、10月、田舎に出戻りました。
29歳での出戻りは恥ずかしいモノでした。
しかも、翌年に入ると降板の話も出るようになっていました。
しかし、この話がスポンサーの耳に入ると「降ろすな」という指示があったそうで、テコ入れのためにLF最強プロデューサーのドン上野こと上野修さんがスタジオ見学にやって来ました。
感想は「あんな理屈っぽい奴とやりたくない」だったそうで、4月からの2年目は前年制作に移ってきたばかりでまだADだったOさんと新入社員で勿論、まだADの藤井さん、というLF最弱スタッフ(失礼)が番組に付くことになりました。
ところが、この頃のボクは運に恵まれていたのでしょうね。
ボクが番組の中である少年の発言に絶句したことから、突然、番組に火が付きました。
それまで最高20通しか手紙が来なかった番組に突然、200通を超える封書が届くようになり、半年もすると1万通が届くようになっていたらしいのです。
僕自身は4000通までしか数えたことがありません。
レコーディングと出版の話が立ち上がり、ボクを取り巻く環境は全く変わりました。
今日のゲストはそんなわけでLF入社以来のつきあいとなる音楽ディレクターの藤井正博さん。
JOLFの歴史の中でも音楽専門のディレクターを募集したのは'72'年と73年の4人だけ、という異色の人。しかも、大学で音楽活動をしていなかったただ一人の採用者でもありました。
その異能故に在職中は慣れない部署に飛ばされ、苦労したこともあったのですが、定年時になるとLFに取っては必要欠かさざる人になっていて、契約、契約の連続で65歳の最終定年まで勤め上げました。
そして、本年、完全退職するとラジオ製作会社から引く手数多。
ついにはこの10月から退職したばかりのLFで『オールナイトニッポン ミュージック10』(毎月曜午後10:00-11:50)を持つことになりました、
その他にもFM番組などをお持ちですが、とにかく、今の方が忙しくて充実しているという藤井さんをお招きして古い話を。
曲は
①ボブ・ディラン 『風に吹かれて』
②ザ・ビートルズ 『プリーズ・プリーズ・ミー』
③ニール・ヤング 『孤独の旅路』
④EPO 『もう一度恋をしてみようかな』
ちなみに藤井さんはEPOの発掘者ですが、この発掘者はあくまでも謙虚です。
「EPOは僕らが目を付けなくてもきっと誰かがデビューさせてたと思います。事実、同時並行で、もう、TBS系の日音音楽出版も動いてましたから。僕らの熱意が少し強かっただけ」
FMさがみは、パソコンならサイマルラジオでお聴きください。
スマホではリッスンラジオ、 i-コミュラジオ、TuneIn Radioなどの無料アプリがあります。
これら専用のアプリは一度ダウンロードしておけば、いつでもラジオが聴けます。
僕の使い勝手ではTuneIn Radioがベストだったのですが、このところ調子が悪くリッスンラジオに助けられています。
ご自分のスマホと相性のいいアプリを試しておいていただけるとありがたいです。

写真はkuro-sanと藤井さん。ProNexスタジオで。

2015年10月3日土曜日

本日10/3(土)の『かぜ耕士のどこかでラジオが』

 本日10/3(土)の『かぜ耕士のどこかでラジオが』(FMさがみ)p.m.11:00~11:59

『かぜ耕士の昭和史』は当初ここまでで終わりと考えていたんですが、「もう少し先までやりましょう」という話が出て、テレビを始めるくらいのところまでやろうかなあ、と思い始めています。
そこまで行くとテレビ辞めるところまで行きたくなっちゃうんだけど、テレビ300本分のドキュメント作りはほとんど楽しいことはなくて、思い出として面白く語れないので、どうしようかと思案中。
で、今日はこの番組のバックに流れているハックルベリー・フィンのボーカル、篠根丈二さんをお迎えして、番組的には小休止。相棒の松村光芳さんが亡くなって1年半、ハックルペー・フィンとしてもう一度歩み始めるじょーじ君のこれからについてなど訊きます。

曲は
①『流れ星』
②『DOWN TOWN DOWN』
③『届いているよ』
④『このままずっと』
⑤『幸せのかたち』

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2015年9月19日土曜日

9/19(土) 本日のFMさがみ『かぜ耕士のどこかでラジオが』


9/19(土) 本日のFMさがみ『かぜ耕士のどこかでラジオが』(23:00 ~23:59)

『かぜ耕士の昭和史』は1971(昭和46年)~1972(昭和47年)

1972年は言わずと知れた「沖縄県発足の年」。
新聞やテレビ各社の取材合戦は一挙に加熱した、ということは一切ありませんでした。
まあ、日本のマスコミが「基地の島・沖縄』を報せることに情熱を注いでおれば、僕のこの年の苦しみはなく、僕はフォーク史上に燦然と名を輝かせ売れっ子作詞家の一人に数えられていたと思う。間違いなく、ね。

1971年5月か6月のある日、僕は舟木一夫さんを育てたディレクターとして高名な栗山章ディレクターから「沖縄のレコードを作ってくれ」という依頼を受けていた。
栗山さんは当時、誕生したばかりの「ワーナー・パイオニア」レコードのLP課にいた。
企画そのものが唐突だったのは「琉球新報社」からの依頼だったからだ。
「琉球新報社」の社長と「ワーナー・パイオニア」の上層部のどなたかが同級生で「沖縄返還記念レコード」を作ってもらえないか? という打診があったのだという。
どんなレコードにしたいのかの案も出ぬ内、とにかく僕がこれを担当することになった。
僕には中三での文通相手が宮古島の洲鎌ケイ子さんだったこと、20歳の年に沖縄が舞台のテレビ映画『空手風雲児』の製作助手をしていたことの二つの沖縄体験があった、
だが、そこから「沖縄」についての知識を得ることは出来なかった。
僕はこの機会に沖縄について正しい知識を得たいと思った。

第一回目の取材はすべてそこに焦点を合わせた。
驚くべき事実が識者の口から次々にこぼれてくる。
僕は圧倒された。
沖縄への関心の低さは沖縄の歴史を知らぬが故の無知からくるのだ、と思った。

じゃあ、本土の人たちはみんなで沖縄の歴史を勉強をしましょう。
基地の島となる過程で何が起き、どんな問題を残しながら日本への復帰が行われるのか?
僕はレコードをそういった視点から構成することにして、取材先をリストアップした。
音楽はその歌が歌われた場所で録音することにした。
風すさぶ草原で、断崖絶壁の上の広場で、家の中で…。

僕の頭はすぐに壊れた。
構造が単純に出来た頭だから、こういう入り組んだ悲惨な歴史を受け止めきれない。
ノイローゼになり、すでに小室等+かぜ耕士として組み合わせが発表されていた「上条恒彦+六文銭」出場の『第三回合歓ポピュラー・フェスティバル』への出品作は仕上がりませんでした。
小室さんと上条さんは「かぜ耕士は病気のため不参加」と書いたり、語ったりしてくれてますが、ノイローゼじゃ先々の仕事に響くのでありがたい気遣いでした。

ただの体験をいつか正しい経験に変えなければ、来年の沖縄体験は一過性のもので終わる。
「沖縄県発足」で体験することになるに違いない摩擦・融合を一過性で終わらせず、経験に変えて行こう。それも正しい経験に。
『沖縄を語るとき~いつか正しい経験とするために』
レコードタイトルはそう名付け、構成、取材、ナレーション かぜ耕士でクレジットされた。
これを機に僕はだんだんメディアの表側にスライドし始めた。
そしてニッポン放送の『たむたむたいむ』にたどり着く。

曲は
①『島唄』(The Boom)
②『ポートランド・タウン』(ジョーン・バエズ)

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写真は3枚組LP『沖縄を語るとき~いつか正しい経験とするために』
\3,000- ワーナーパイオニア 1972年3月25日発売




2015年9月5日土曜日

本日(9/5)のFMさがみ『かぜ耕士のどこかでラジオが』

『かぜ耕士のどこかでラジオが』(隔週土曜日 Pm.11:00~11:59)

『かぜ耕士の昭和史』は1970年~71年(昭和45~46年)
僕が『出発の歌』でフォーク・ブームの先鞭を付けるまでの「上条恒彦+小室等と六文銭」の座付き作詞家だったことはあまり知られていません。
正直、『涙をこえて』で世に出てから声を掛けてくれたのは音楽出版社の「ユニオン・コルス」と小室等さんだけでした。
70年、小室さんの誘いで、僕は上条さんのコンサートのオリジナル曲や訳詞を手掛け始め、続いて71年には小室等と六文銭の詩を書き始めました。
「小室等と六文銭」はメンバーそれぞれが作った歌は何曲かあったのですが、グループとして歌う曲がなく、ちょうど71年4月頃からラジオにレギュラー出演するようになったために、彼らのソロと僕が外国曲に詩をつけたグループ・ソングで急場をしのいでいました。
僕の名はフォーク史に残っていませんが、僕が『出発の歌』を書かなかったことで日本のフォーク・ブーム、ニュー・ミュージック・ブームを招来させたのは本当です。
まあ、『出発の歌』の半年後に出る拓郎君の『結婚しようよ』で間違いなくフォーク・ブームは到来したと思いますが、『出発の歌』とのタッグが功を奏した側面は見逃せないと思います。
僕が何故『出発の歌』を書かなかったかは71年という時代にありました。
そう、沖縄県発足の前年でした。
僕はその夏に予定されていたミュージカル『ロック戦争』への出演と『第3回合歓ポピュラーソング・フエスティバル』への参加を蹴って沖縄取材に奔走していたのです。
今日はそんな話を。

曲は
①『傷ついた小鳥』(ダリダ)
①『風に立つライオン』(中山エミ)

特に2曲目は一聴の価値あり。物語を歌うことに長けたシャンソン歌手ならではの一曲です。

FMさがみは、パソコンならサイマルラジオでお聴きください。
http://csra.fm/blog/author/fmsagami/
へアクセスを。
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写真はkuro-sanとProNex st.で。
もう一枚はこの日、寂しく一人で喰った池袋東武「和幸」のロースカツ定食。







2015年7月10日金曜日

7/11(土)のFMさがみ『どこかでラジオが』(23:00-23:59)

「わたしの昭和史」は 1968-70(昭和43-45)年。
凄く焦って先に行こうして、話が解りにくくなってない?という意見がありました。
バイト時代の話です。
『3時のあなた』を早々に切り上げた理由と『走れ!歌謡曲』に居続けてしまったわけ。

曲は
①『スピニング・ホイール』(ブラッド・スウェット&ティアーズょ
②『そばにいてほしい』(サム・スミス 2015 グラミー賞3冠)
③『ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード』(ザ・ビートルズ)

 ★以下はkuro-sanの紹介文を使わせてもらってます。
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http://csra.fm/blog/author/fmsagami/
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若い時の写真、何枚か載せてみます。
喰ちゃんを見たいという声があったので、喰ちゃんのいるものを。




2015年7月5日日曜日

「日刊ゲンダイ」の記事


取材してくれた山田さんがアップしてくださいました。

山田さんは演劇ジャーナリストなので、日記のように鑑賞記をご自身のタイムラインにアップされています。
最新記事はストレートプレイの古典的名作を音楽劇にしたワイルダーの『わが町』。

FBを活用されてらっしゃる方は新聞用ではない親しみに溢れた素敵な鑑賞記を是非ご一読ください。


江戸蜂蜜


獣医師として知られ、有機農園をお持ちの野澤先生から見るからに美味しそうな蜂蜜を送っていただきました。
左の明るい色のが今年の作品、右の色の深いものは去年からの越冬した蜜だそうです。
「黄金色」と呼ぶにふさわしいその色にまず驚いた。
舐めてみてさらに驚いた。
サラリとしながら口いっぱいに広がる上品な甘さは今年のもの。
蜜の深い色合いに似て味わいにも奥行きが感じられる越冬もの。

正直、濃厚というよりは単にこってりあまい、スーパーで買う蜂蜜しか食したことがなかった。
イヤ、三浦半島に養蜂業の方をお訪ねした取材で採ったばかりのを舐めさせていただいたことがあったな。
あの時も市販のモノよりくどくないサッパリした味わいに驚いた。
僕は食い物にはとやかく言わない、言えるほどのものを食べてこなかったので食レポは全く出来ないんだけど、この両「江戸蜂蜜」はこのすぐれない空模様の日曜の午後をとても幸せな時間に変えてくれました。
では、雨の来る前にblake散歩に出掛けてこよう。
野澤先生、ごちそうさまでした♪