2018年9月20日木曜日

ご報告

本日(9/19)、母が亡くなりました。
極々、私的なことなのでどうすべきか迷いましたが、何人かの方には確約をお待ちいただいたり、何人かの方には約束を違えることになってしまいましたので、報告させていただくことにしました。
95歳でした。大往生と言って良いと思います。
哀しい思いを共にした母でした。嫁いで1年後に夫は出征。シベリアに抑留され、敗戦から4年、その生死さえ判りませんでした。
「アカ」になって帰ってきた夫はそのレッテルを背負って生きるしかなく、復員から5年、革新系議員として村議となりました。
埼玉は革新の育たない保守的な土地柄です。県議選こそ敗退しましたが、母は常に逆風を受けながら夫の議員生活を陰で支え続け、夫は亡くなったその年まで30年間、町議に再選され続けました。
12歳で村を出、65歳で帰った僕に、「山田さんの人気は、実は奥さんの人徳だと思うよ」と母をお褒めくださる方が何人かいらっしゃいました。
僕の74年の人生の中で、わずか21年しか一緒にいなかった母とはいくつかのわだかまりを残したままでしたが、ここ数ヵ月の介護生活で、人生最大のわだかまりが氷解したことは僕には心底、救いとなりました。
無駄だと思っていたこの長生きには相応の意味があったのだと思わずにいられません。
父を送る時は叔父が喪主である次女に代わって挨拶しました。何故、長女、次女でも僕でもなく叔父だったのか。
父の周回忌には「息子は口下手ですので」と、喋ることで碌を食んでいた僕をさしおいて母が挨拶をしました。
常識のない僕が何を話し出すのか彼らは不安だったのだろう、と安直に考えていたのですが、そこにも母と叔父の深い配慮のあったことを短い介護生活の問わず語りで、気づきました。
次女夫婦の計らいで僕は母の葬儀では喪主挨拶に立ちます。
これは周囲も母も恐らくは予期せぬキャスティングですが、僕は思いを籠めて母を送ろうと思います。
周囲にも納得してもらえるよう言葉を選びたいと思っています。
この人生の長旅を意味あるものにしてくれた母に、そして妹夫婦に感謝しています。
こんな捻れた安手のドラマのような不幸な親子関係を作らせた大本は戦争でした。
僕は心から戦争を憎んでいます。

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