2015年3月6日金曜日

1月6日 本日「リハビリ初め」で「トントントントンヒノノニトン」


「初」を「そ」とか「ぞ」と読む時、必ず思い出してしまうことがある。
深夜3時文化放送の『走れ!歌謡曲』のADをバイトにしていた時のことだ。
同番組は東海ラジオとラジオ大阪とも手を結び、主に深夜の長距離輸送のドライバーをターゲットにしていた。
東海と大阪からのリクエストは東名、名阪のサービスエリアで募り、今で言う「トラック野郎」たちを大事にしていた。
スポンサーは日野自動車。
パーソナリティーは女子アナ3人、ジャズ番組MC、交通情報の超人気お姐さん、バックコーラスのディーバの6人で、まだ1時~3時に『セイ!ヤング』も誕生していなかった頃だから大反響を呼んだ。
初回は1968年11月19日(月曜深夜火曜朝)。
彼女たちに随くバイトのADは3人。週2日づつを担当。
採用条件は「深夜放送は初めての試み。パーソナリティーが話に詰まったらすぐ台本を書いて渡せる者」で、後の朝ドラ作家松原敏春、後のWAHAHA本舗主宰者喰始、そして僕とがその初代バイトにありついた。
夜11時に局入りした僕らは最初に東海と大阪両局の当日担当アナに電話してリクエストの集計をするのが決まりだった。
両局の担当コーナーもあり、当然女子アナが起用されていたから番組の華やかさは巷で大評判となりターゲットのトラックドライバーの他に高校生や大学生のファンがついた。
1年後には人気も本物になり、公開録音などイヴェントも企画されたが6人のパーソナリティーはこれを嫌がった。
当然である。客は男ばかり。
中高生辺りの男の集団はどれ程のことでもなかろうが、大学生と長距離輸送のドライバーたちにジーっと見つめ続けられているとしたら…。
バイトの僕らが見ても一種異様な空気が漂っていた。
ちなみにこの番組から生まれたのが1969年の名曲として由紀さおりがカバーしている『私もあなたと泣いていい?』(三沢郷作詞作曲/兼田みえ子唄)と「レモンちゃん」こと落合恵子さんだ。
バックコーラスシンガーだった西条ゆり子さんは番組担当中に作詞家千坊さかえとして売れ始めボーカルトレーナーを務めていた青江三奈さんに書いた『国際線待合室』で100万枚超えのヒットを放った。
彼女が本当に凄いのは僕に業界裏話を決してしないことと、100万ヒットのあとも少しも人柄が変わらなかったことだ。
同じことは落合さんにも言えて、僕がパーソナリティーに転じたあと見倣ったのはいずれも僕がアシストした西条さん、落合さん、そして文化放送の女子アナ長野悦子さんのお三方だ。
ま、この番組に関してならひと晩は語れる。
そんな注目番組だから起きたとも言えるのが島崎藤村『初恋』事件だ。
ある週の担当コーナーで東海ラジオの●●さんが「今日は私の大好きな詩を読みます」と突然、
「まだ上げはじめし前髪の」
と始めてしまった。
担当日でなかったので僕はそれをラジオで聞いていたのだが、
「そめし、そめし、そめしだよ! アチャー、こりゃイカん!」
思わず声に出してしまった。
誤読した彼女に非があるのは間違いないのだが、ま、深夜4時近くの出来事。
通常なら知らん振りすることも出来た。
だが、この番組は日野自動車が社運を賭けてスタートさせた番組だ。
昼休み、日野自動車ではその日の放送が社内放送で流れ、全社員がそれを楽しみにしていたのだそうだ。
その日を限りに●●さんは放送から消えた。
「リハビリ初め」と書いた瞬間、僕は『初恋』事件を思い出した。
「鼓舞」を1分間に3回も「こまい」と読み続けてもニュース番組をやっている人もいる。
交通情報で読めないICの名が出てきたので「交通速報が入りました。……交通には何の異常もありません」とやってのけた人もいる。
「そめし」の読み違いだけで…と思わないでもないが有名すぎた詩、「一番好きな」という振り、熱心なスポンサー、と条件が重なりすぎの上に、この詩、「初めし」が何度も出てくるのよね。
余談ですが、この社内放送のせいで西条ゆり子さんはかなり早い段階で番組を降ろされかけた。
日野の社員に人気がなかったのだ。
だが、彼女はこの番組を10年も続けた。
それは日野の番組担当者の熱心さの賜物でもあったらしい。
彼はモニターを頼んでいた隣家の大学生の意見を尊重したらしいのだ。
大学生はこう言ったらしい。
「一番好きなのは西条ゆり子。性格が良くってハスキーな声が魅力的」
そう、深夜放送は昼に聞くものじゃない。深夜に聴いてこそのモノ。気づく部分もおのずと違うのですね。
担当の方もよく社内を説得してくれたと思います。
ラジオに関わる人たちが熱かった頃の話、と言ってしまえばそれまでですが…。
さらに余談:1
藤圭子さんの『新宿の女』は売れるまで時間がかかりました。作詞家で圭子ちゃんのマネージャーだった石坂まさを先生は圭子ちゃんを連れてほとんど毎週番組に売り込みにこられました。
なので、売れる前の圭子ちゃんに一番会ってるラジオ関係者は僕じゃないかと思ってる。
石坂先生は僕に自分が持ってるブルーインパルスというGSの作詞を依頼してきてくれたんだけど、賄賂を受けとるみたいなものなんで書かなかった。
さらに余談:2
喰ちゃんと意見が一致してるのは『長崎は今日も雨だった』は「俺たちが流行らせた」。
同曲は確か1969年2月の発売。
いい歌だけどこの季節の発売はないだろ!
雨の季節まで掛け続けてみようよ。きっと当たるよ。
結果はご存じの通り。
ラジオからのヒットが多いのは選曲の自由が利いたせいね。
しかも俺達みたいな勝手なADもいた。
自分のレコードをヒットに出来なかったのは作品の力のせいもあるけど、なんかそれはいけない気がして遠慮しちゃったね。
格好の場にいたのにね。何であんなにいい子ぶってたんだろ♪



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